世界が明日終わるとしてもー10

オスカルの意識が戻ってから数日経ち、ようやく寝台の上で起き上がれるようになっていた。夫人や医師が話しかければ答えるが、殆どの時間はただ茫洋として窓の外を見ている。季節は暖かくなっていくのに、部屋の中だけ冬に戻ってしまっている。

夫人は自室に戻ると、椅子の中に深く沈みこんだ。娘はずっと青白い顔をして、言葉が途切れるとふっと外を、いや、其処にいない誰かを見ている。出仕しようとした気持ちの張りすら失っているのだろう。判っていても何もできないことに夫人の胸が痛んだ。オスカルの意識が戻らなかった間に、夫とは決定的に溝ができてしまっていた。
――諍うつもりはなかった、ただオスカルを責めず、退役の話を待ってほしいと言いたかっただけなのに。
夫人とて、夫が置かれている状況を知らないではない。急速に不穏さを増す世情の中、将軍という立場の重責が大きいことは判っていた。しかし夫が頑ななのは、もっと他に・・。
夫人はかぶりを振った。糸が縺れ、ほどくことのできない混迷に陥ったのは夫ひとりの責ではない。世継ぎを与えられなかった妻を責めなかった夫に、夫人自身が抗弁できなかったことが、最初の間違いだった。娘のためを思うなら、もっと強くあらねばならなかった。私たちの弱さが、娘に重荷を背負わせたのだから、今すべきことをしなくては。

夫人が侍女を呼ぼうと立ち上がった時、当の侍女の話している声が窓の下から聞こえてきた。厩番と話しているようだ。呼ばれて部屋に入ってきた侍女は遠慮がちに話しかける。
「旦那様がご不在ですので、奥様にご相談したいのですが。ここ数日、あの・・アンドレのものだった馬の具合が良くないようなのです。厩番ではもう対処できないと」
夫人は眉をひそめた。すぐ獣医を呼びにやるよう伝えてから、この話がオスカルの耳に入っていなければいいがと思った。ふたりは殊に馬を大事にしていて、オスカルの馬と共にアンドレが世話をしていた。よく幼いころから遠乗りに行き、言葉を介さずとも愛情を向ける馬を心から信頼していた。
夫人は溜息をついて外を見た。曇天に陽が隠れ、辺りは薄暗く雲が厚くなっていった。

ここ暫く体調のすぐれない主人を部屋にあげて、アンドレは店を片付けていた。夜遅くなればさすがに扇動家もいなくなる。近頃は毎日のように、広場と言わず道端と言わず、誰かが声を上げていた。そしてそこに集まる人間も加速度的に増えていた。皆一様に飢えぎらついた眼をして、演説者が煽れば煽るほど、賛同する声も大きくなっていく。
”危ういもんだ”
カフェの主人の言葉を思い出した。煽られ高ぶった空気、その後には何がある?三部会で改革できると、今はまだ皆期待を持っている。それが為されなかったら。

アンドレは頭を振って、歩きなれた帰路の街角を曲がった。するとその先に道一面ガラスが散らばっていた。足元が暗いため一瞬判らず、思わず足を止めた。見ればパン屋の店先が壊され、扉も割られていた。蹂躙された店を彼は知っている。最近は店に殆ど商品は無かった。小麦が高騰してもう売りたくとも物がない、とこぼしていた。その店が何故?薄い月明りに目を凝らすと、道に点々と血の跡が続いている。だが割れたガラスと、首を項垂れてパン屋の臭いを嗅いでいる犬以外、暴行の痕跡は残っていない。パン屋は無事だろうか?
ただ顔見知りだというだけの間柄でも、無事を思わずにはいられない。アジテーションに高揚し、パン屋を襲撃する群衆だとて、ひとりひとりにはそんな相手がいるはずなのだ。何かが歪んできている。彼は空を見上げた。下弦の月は薄雲に隠れ、朧げにしか見えなかった。

雲の流れが速く風が吹いていた。窓ガラスが揺れる音で、オスカルは浅い眠りから目覚めた。窓に目を向けて、身体を起こそうとしたが力が出なかった。ため息をついて寝台に凭れ掛かる。
一瞬突風が吹いて、木々がどうと揺れる。枝の吠える音に混じって、遠くから馬の嘶きが聞こえた気がした。もう随分と長く愛馬の様子も見ていなかった。厩番が世話をしているのだろうが、オスカルの馬はほとんど彼女とアンドレにしか懐かない。
オスカルは寝付いていた間に耳にした会話を思い出した。誰か、多分侍女が、馬について話していたようだ。誰かの馬の具合がよくないと言っていたような気がする。はっきりと思い出せないことに不安が募った。
――もし私の・・あるいは彼の馬なら。主の姿が見えずに寂しがっているだろう。
オスカルは身体を起こした。寝台の支柱を掴む手が震えたが、立ち上がることは出来た。ローブを羽織ってバルコニーから外へ通じる回廊にでる。其処からなら厩舎も近い。風は強くなり、雲の厚さは増したようで外は暗闇だった。

夜遅く、当主の帰りが告げられた。夫人は着替えもせず、それを待っていた。昼間、使いと手紙を送ったために帰ってきたのかは判らないが、次の機会が何時になるかわからない以上、今夜のうちに話しておかなくては。
しかし部屋で待っていても夫は戻ってこない。夫人は書斎へ向かった。扉をノックしても返答がなかった。戸惑いながらもう一度叩くと、ようやく返事があった。

正面の卓の上に唯一の蝋燭が揺らめくだけの部屋で、夫は椅子に沈んでいる。顎を引いて背中を丸め、ひじ掛けを掴んでいる手の甲だけが闇に浮かんでいる。疲れきり、ものすら言わぬ夫の様子に夫人は胸を突かれた。話しかけるべきか逡巡したが、意を決して卓の前まで進む。
「あなた・・」
夫は応えず目だけを僅かに上げた。
「お話を」
「後にしてくれ。私は疲れている」
「あなたが背負っておられるものは私にも判っています。今この状況では何もかも煩わしいだけでしょう。しかし猶予が無いのです。私たちの・・・愛しい娘には」
夫が顔を上げたが、その視線には暗く澱んだ怒りがあった。しかし夫人は怯まなかった。両手を組んで握りしめ夫の正面に立った。

庭を横切る途中で眩暈がした。視界がぐらつき思わず座り込む。息が荒くなると胸が苦しかった。呼吸するたびに肺がひりついて痛い。暫く待って動悸が落ち着いてから再び歩き出す。彼の馬・・ずっと大切にしていた。私が行かなくては・・その気持ちだけでオスカルは歩いて行った。

厩舎の扉の所で立ち止まり息を整える。気配に馬が目覚めて小さく嘶いた。あまり足音を立てないよう静かに奥に入る。オスカルの馬は主人に気づき顔を上げた。しかしその奥にいる栗毛は動く気配がない。近づくと力なく寝藁の上に蹲っている。刺激しないようそっと手を伸ばしたが、少し首を動かしただけですぐ目を閉じてしまった。
――具合がよくないんだ。アンドレがいたらすぐ。
そこまで考えてオスカルはかぶりを振った。厩番はよく気の付く男だ、何か手を打っているはずだ。明日にでも尋ねればいい。彼のいない間にもしものことがあれば・・彼の。
オスカルは優しく栗毛の首を撫でていたが、暫くして立ち上がった。夜露の冷たさに胸が苦しくなっていた。オスカルに首を向ける愛馬をなだめる様に声をかけてから、ローブの前を重ねて名残惜し気に厩舎を立ち去った。

「お願いですから、貴方」
「これ以上話すことなど無い。オスカルはアラスにやる」
夫人は後悔した。事態を打開するために焦ってしまったことを。しかし大事なことを話してしまった以上、なんとかして夫の心を変えさせなければ。
「せめて体力が回復すれば復帰できるよう、軍籍を残しておくことは可能なはずです。王妃様もそのように」
「治療に専念させるといえば王妃様も拒まれまい。このような時に王妃様や王家に些事などで煩わせるなど・・あれは裏切り者だ。貴族も・・ひいては王家も蔑ろにする。そのような者が」
「貴方、あまりな」
「お前は知らないとでもいうのか。民衆が王に逆らう、貴族の中ですら扇動者がいる。今、王室は内側から崩れようとしているのだ。増長した平民が王を足蹴にするようなことなど断じてあってはならん。危殆に瀕した王を守護せねばならない我が一門から・・よもや」
「私達の娘を信じられないとおっしゃるのですか」
「王の兄弟でさえ裏切るこの状況で、信じられる者などいない。事態が治まるまでベルサイユには戻さん。それ以外に方法があるのか。オスカルの・・ことを誰にも気取られないようにしなければ」
「これは確かにあの子の過ちです。しかし私達の罪でもあります。私と貴方がオスカルを責められるのですか、私達がなんの間違いも犯さなかったと」
「それ以上は言うな!」
激高する夫をなだめようと夫人が手を伸ばしたが、将軍はそれを振り払った。
「お願いです。希望がないまま病を治すことは、生きていくことは辛すぎます。これ以上」
「希望など・・・何処にある!あろうことか従僕の子を孕んで流れたなどと――」
「貴方!」

バルコンに通じる扉が、風にあおられ突然開いた。格子戸が壁に当たり跳ね返る衝撃でガラスが割れる。音に驚いた夫妻が外を見ると、揺れる扉とガラスの破片の向こうに黒い人影があった。
「・・・オスカル」

 

 

←前へ →次へ