やさしい指


わたしが画家だったら、きっとこの手を描くだろう。細くはなく、心もち長くてやさしい指。しっとりした掌。その手が頬を包むと、肌が柔らかく湿っていくのが分かる。手はゆっくりと首筋に下りてゆき、左手の薬指がわたしの鎖骨をなぞり、人差し指が唇に触れる。わたしは指を軽く歯で捕らえ、舌で爪先を転がした。唇と歯と舌で指をすっかり包んでしまうと、彼の表情がわずかにゆがんだ。濡れた指先を解放するとそのまま掌に口付けた。 この手が好きだった。千の表情を持ってわたしに触れ、言葉で表さなくても全てを語る。そんなことも今まで知らずにいた。触れ合うまで、知らなかったことがたくさんある。

例えば、漆黒の色だと思っていた瞳の中に、なんと様々な色彩があることか。深い茶色、濃い鶯羽の色、わたしを見つめている瞳は、その時々で表情を変える。瞳の色を探すのが好きだった。ひとつ残った左目に、私が映っているのが好きだった。
好き、好き、好き・・・彼の中の好きなところを数えていくと、限りがないように思えた。瞳の色を数える、指が触れた場所を数える。何度も続けていくと、やがて身体の中がいっぱいになる。
首筋にゆっくりと降りてゆく唇。指はわたしの髪を弄んでいる。手のひらが胸のふくらみを包み込んで、薄紅色の先端を歯が軽く噛んだ。私は思わず彼の肩を掴む。彼はわたしの手首を捕らえると、頭上で押さえ込んでしまった。腕の内側から胸襟にかけて、筋肉が伸びるのが感じられた。普段無防備な腕の内側の皮膚を指がなぞっていく。薄い皮膚と脂肪と筋肉を全部つらぬいて、彼の指先が神経に届く。そこだけまるで火をつけられているようだ。彼は何故私自身も知らないわたしの身体を知っているのだろう。腕の内側に神経が通っているなんて、考えたこともなかった。

こんなときいつも、ほんの少し恐怖を感じる。どんなに肌を合わせても、お互いの鼓動を溶け合っても、わたしたちが生きている今この場所と時代への恐怖。細い支流が大きな河となり、暗い濁流となって容赦なく人を飲み込もうとしている。その恐ろしさを確かに目のあたりにしたのはあの時だった。あの恐怖は、いま彼の鼓動を聞いていても、薄れることなくはっきりと浮かび上がってくる。

あの事態は、わたしの軽率さが招いたものだった。私のせいで彼を失うことになっていたら、この身体を見えない塵になるまで切り刻んでも、自分を許せなかっただろう。
パリ市内の警備にあたり、民衆の暴動も何度も見ていたのに、自分の身に降りかかってくるとは思いもよらなかった油断。彼と二人でパリに向かっている時、突然紋章の入った馬車が揺れて止まり、殺気だった群衆に囲まれているのに気づいたときは遅かった。罵声と怒号、響き渡るその声に圧倒され、早く逃げるように叫んでいる彼の声もかき消されていった。
彼は関係ない、群集が憎悪している貴族ではないのに。しかし取り囲んだ群集には何一つ耳に入らない。あるのはただ憎悪、不満。みな一様に目を吊り上げ、大声で叫びながら、馬車を壊し、棍棒を振り上げてわたしと彼に向かってきた。なんとか彼のそばまで行かなければ、そう思っても棍棒や鎌を避けて、振り払うのが精一杯だった。瞬間肩に衝撃を受け、意識が遠ざかる。視界を何とか保とうとするが、膝が崩れた。

だが突然、周りの叫び声が変わった。蹄の音が聞こえる、軍隊が来たのだ。囲んでいた群衆が乱れ散っていく。彼はどこだろう、無事だろうか、そう思って踏み出そうとした途端、女が立ちはだかった。乱れた髪、薄汚れた衣服、そして何よりもその表情にわたしは凍りついた。

飛び出さんばかりに見開かれた眼、叫び声をあげてぱっくりと開いた口、そこにあるのは凝縮された憎しみだけ。嫌悪、憎悪、悪意、殺意に満ちた狼の顔が牙を剥き出している。女は何か喚きながらわたしに向かって走ってきた。よけようと思えばよけられたのだろうが、わたしは微動だにできなかった。
わたしとその女の間だけ時間が狂ったようにゆっくりと流れ、女の声の他には何の物音も聞こえなくなった。女はなおも叫んでいる。そして太い棍棒を頭上に高く両手で掲げると、わたしに向かって渾身の力で振り下ろす。わたしはその瞬間も恐怖に凍りついたままだった。自分に向けられたこの圧倒的な憎悪に身動きができなかった。頭に激痛が走り、目の前が暗くなっていく。目をそらす事ができなかった女の顔が遠くなる。そのとき初めて女がなんと言っているか分かった。 「カエセ」そう言っていた。
「返せ、返せ、お前たちが私から盗っていったものを返せ」
何をだろう、彼女は何を失ったのだろう。わたしには分からなかった。彼女の憎しみも、それが何故自分に向けられたかも。

アンドレ・・わたしは遠ざかる意識の中で彼の名を呼んでいた。視界は真っ暗になり、地面が冷たく頬にあたるのを感じた。周囲が暗黒に包まれる。死神がすぐ傍らに立っているような気がした。アンドレ、彼は・・無事なのだろうか・・アンドレ・・
誰かがわたしの名を呼んでいる。うっすらと明るさが戻ってきて、気が付いたときフェルゼンが目の前に立っていた。心配そうに顔を覗き込んでいる。何故彼がここにいるのだろう。その問いを察したように、暴動の知らせを聞いて近くにいた自分たちが駆けつけたのだと言った。
暴動・・私たちはそれに巻き込まれて、・・・そうだ彼は、アンドレはどこだ?見回したが彼はいなかった。血が凍りついた気がした。わたしが直面した死の恐怖。彼にそれが襲い掛かっていないといえるだろうか。まさか、もう・・・・。背筋を得体の知れないものがなぞっていった。群集はまだ残っていた、軍隊が馬で追い払おうとしているが、抵抗しつづけていた。早く彼を助けなくては、ひょっとしたら今、この瞬間にも。飛び出そうとするわたしをフェルゼンが腕をつかんで止めた。
「離してくれ」
わたしは叫んだ。
「アンドレが、私のアンドレが危ないんだ!!」

フェルゼンの眼が私を見据えている。わたし自身も自分の言葉に驚愕していた。わたしの・・・アンドレ。
彼は立ち上がり、アンドレを助けるからここにいるようにと言うと、馬にまたがって群衆の中にわけ入っていった。フェルゼンが自分の名を大声で叫ぶと、群集は驚き、新たな魅力的な獲物に飛び掛っていく。ただの貴族じゃない、あのオーストリア女の情夫だ。これ以上の獲物があるだろうか。そんな言葉があちこちから聞こえてきた。
フェルゼンは人々が自分に向かってくるのを確認すると、冷笑を浮かべて馬を翻した。彼と群衆が遠ざかっていく。大丈夫だろうか。軍をつれているとはいえ、あれだけの群集が彼ひとりに襲い掛かったら。囲まれそうになる指揮官を守るために他の兵士も集まっていく。フェルゼン・・でも今はアンドレを助けなくてはいけない。群集はもう、きらびやかな馬車に乗った貴族のことなど忘れている。
わたしはアンドレの名を呼んだ。何度も、大声で。しかし答えは無い。いつもわたしの名を呼ぶあの優しい声が聞こえない。名を叫ぶごとに絶望が身を切り刻んだ。全身が総毛立ち、皮膚の上をざわついた予感が走る。まさか・・・。どこにいる、どこに。頼むから無事でいて。 広場の隅で見慣れた軍服の色を見つけたとき、駆け寄ろうとして、思わず足が止まった。彼がうつ伏せに横たわっている。ぴくりとも動かない。その服が破れ、地面には血が滲んでいる。周囲から色と音が消えた。

頭ががんがんする。血が眼に入って開けられない。それでも宙に浮くような足取りで、彼のそばまで行って膝をついた。彼の顔はうつむいていて見えない。息をしているかどうかが分からない。わたしは彼の手に触れた、暖かかった。夢中で彼の耳元で名を呼ぶと、かすかにうめき声をあげた。・・・生きている。生きて・・・。

頬を濡らすものがあったが、涙なのか血なのか分からなかった。泣いているときではない、彼を安全な場所まで連れて行かなくては。私は彼に呼びかけながら、まだ意識のはっきりしない彼をなんとか肩で支えて立たせた。軍隊と群集はもう周囲には殆ど見当たらなかったが、一刻も早くこの場所から去らなければならない。
ようやく辻馬車をひろい、乗り込んで深い息をつくと、身体中の痛みが戻ってきた。肩に寄りかかっているアンドレの顔を覗き込もうとしただけで、背中に激痛が走った。さっきまでは気づかなかったのに。しかし痛みより、あのまま残してきたフェルゼンと、なにより今また意識を失っているアンドレのことが心配だった。彼は腕を何かで切られたらしく、軍服が破れて血で染まっている。痛みに顔がゆがんだが、ハンカチで止血をしながら、フェルゼンのことを考えた。あんな場所に残したまま、助けに行くこともしなかった。しかし蒼白になっているアンドレの顔をみていると、心が切り裂かれるようだ。 フェルゼンと、傷ついたアンドレと、そしてあの時の自分の言葉。

なにもかも知らなかったことばかりだ。肌を合わせること、胸に顔をうずめると心臓の音が聞こえること。人の鼓動はこんな音がすることも。今までに聞いたどんな音楽よりやさしい音は、力強く歌っている。なのにそのかけがえの無い鼓動を守る身体は、なんともろいのだろう。薄い皮膚は裂かれるとすぐに血が流れ出す。筋肉も骨もこの心臓を守るに足るだけの強さは無い。彼の体を鋼鉄の鎧で覆いたかった。もう二度とあんな思いはしたくない。

あの後、フェルゼンの無事を知らせる使いが来た。ばあやが真っ青になって呼びにやらせた医者は、ふたりとも打撲と切り傷だけで、命にかかわるようなことは無いといい、ばあやはようやく安堵した。そして・・わたしも。

彼の指が私の中を滑っていく。優しいのに冷たい指。ゆっくりと暖かく湿った場所へ分け入ってゆく。声を出してはいけない、と彼が言うので、わたしは唇をかみ締めたまま、嗚咽のように漏れる音を抑えるのに必死だ。切れる寸前まで張られたバイオリンの糸のように神経が張り詰める。身体の奥で何かが弾け飛ぶ音がして、冷たい指で熱を持って開かれていく、もうこれ以上耐えられそうになかった。声にならない声を出している唇に彼のそれが重ねられ、舌が絡まっていく。冷たい指とは対照的に彼の唇は熱く、身体がそこから溶け出しているかのようだ。もはや彼の指がどこに触れているのかわからなくなってきた。胸の頂き、白くくびれた腰、熱く湿った茂み、彼の指が触れない場所は無い。手と指と唇が私の身体の境界を溶かしてゆく。重ねられた彼の身体がふと離れると、強く暖かいものが私の中に入ってきた。
貫かれて揺り動かされる感覚、翻弄されることそのものが快に変わる。頭の中は真っ白になり、弾け飛んでしまいそうだ。多分このまま死んでしまうだろう、この感覚を楽しむことはなんと殺される瞬間に似ていることか。このまま、生き延びられずに死んでしまってもいいかもしれない。このまま・・何も考えずに・・・。

彼の身体かかぶさってきて、甘い残滓を身体の中に残したまま、眠り込みそうになる感覚の中でわたしは考える。
あの時の、あの女は何を失ったのだろう。死神の力を借りて取り戻そうとしたものはなんなのだろう。もしかしたら、今まで生きてきた中で少しずつ諦めていたもの、全てなのではないだろうか。人は日々を重ねる中で、何かを諦め、切り捨てていかなければ生き延びることはできない。今まで諦めてきたものが、このうねりの中で取り戻せると思ったのか。
声を上げることの無かった多くの人々、その積もりつもった憤怒は、いまや地下で燃えるマグマのように噴出す出口を探している。その火が地上に噴き出したとき、なにもかもを燃え盛りながら押し流してしまうだろう。私も彼もその流れに逆らうことは出来ない。
私たちは生き延びられるだろうか・・。わからない。あの女の憎しみが何故私に向けられたのか、流される血は何のためのものなのか、全ては答えの出ない問いだった。わかっていること、確かなことは、横たわる彼の身体の温かさだけだった。
私が見つめていることに気がついた彼が目を開けて微笑み、私の肩を抱き寄せた。彼の手が私の髪をなでて、唇が愛の言葉を囁く。
「愛してる・・」
その言葉は私の中の不安を魔法のように拭い去った。この温もりを守りたい、決して失いたくない。どんなことがあっても・・・。

屋敷で待機していた私の元へ、パリへの出動命令が届いた。7月13日。その日から何かが動き出す。逆らうことの出来ない、熱い奔流が。

END