世界が明日終わるとしても-13

「フランソワがいなくなりました。此処には来ていませんか」
神父が青い顔をしてカフェに駆け込んできた。
「いえ、見かけていません。いなくなったとは?」
「昼から姿が見えません。多分、母親と暮らしていた家に行ったのではないかと思います」
アンドレは考え込んだ。フランソワから以前暮らしていた街区の話は聞いたことがある。子どもの足で容易に行ける場所ではない。
「フランソワと仲の良かった子を母親が迎えに来たのです。フランソワはショックを受けていて・・私が気づいた時にはいませんでした」
――アンリはいつも母さんの話ばかりしてる。母さんがいないのは僕と一緒だけど、アンリはまだ小さいから判ってないんだ。僕が守ってあげなくちゃ。
「一度は捨てた子を、親が迎えに来ることも無いわけではありません。子どもにとっては喜ばしいことですが、フランソワはアンリを可愛がっていましたから」
「ともかく探しに行きましょう。もうすぐ日が暮れます」
アンドレは神父を伴って外へ出た。初夏が近かったが日の暮れるのは早い。アンドレは打ちのめされた少年のことを思った。母を亡くし途方に暮れ、灰色の雲の中にいたような子どものことを。

 

羽がある、とフランソワは思った。喧騒と混乱の中、土埃で前が見えなくなった時。目に飛び込んできたのは、金色の色彩だった。荒々しい馬の蹄、怒号を上げる大人。その中に突然、天使が現れた。雄々しい羽根を広げ、空から降り立った天使・・金色の。
「もう大丈夫だ、怪我は無いか?」
天使を見まがったその人は、フランソワを庇いながら路地へと連れていく。馬の蹄に潰されるところを助かった、そう気づいた子どもは震えた。
「こんなところにいてはいけない、家は何処かね」
子どもの顔にかがみこんで、心配げに見つめている碧い瞳。子どもは恐怖と安堵から泣き出した。
「家・・家は」
もう母と暮らした家には戻れない、もう母はいない、戻れないんだ・・。
「サン・マルタンの教会です、そこで暮らしているんです」
「それは随分と遠い、送っていこう」
「でも・・」
子どもは躊躇ったが、白い手が肩に置かれると黙った。その暖かさは失った人を思い起こさせた。子どもは涙をぬぐいもせず頷く。

手を引いて歩いていくその人を見上げて、フランソワは不思議だった。男性のように見えたが、袖から覗く細い手首は違うことを示している。きっと天使だから、人とは違うんだ。でもこの人を何処かで見た気がする、どこで見たんだろう・・。そう考えていると、背後から名前を呼ぶ声がした。
「フランソワ!」
男が走って近づいてくる。
「良かった・・探したんだよ」
「ごめんなさい」
駆け寄ってきた神父は、子供に怪我が無いかと確かめた。
「良かったな、君。迎えがきて」
「あなたは?」
「この人が僕を助けてくれたの」
神父が何度も礼を言い、名前を尋ねようとするのを固辞してオスカルは少年に別れを告げた。

 

気づくともう日が暮れかかっていた。立ち止まって空を仰ぐと急に胸苦しさを覚え、枯れた噴水のへりに座りこむ。闇雲に探し回っても、人口数万を超えさらに棄民が流入しているパリで、探し出せるのだろうか。オスカルは俯いたまま嘆息した。
「ロベスピエールだ!」
「彼が演説するぞ、広場だ」
周囲の群衆がざわめき立っている。オスカルも気づいて立ち上がった。

ロベスピエール、ロベスピエール!群衆は口々に名前を呼んで、辻々から集まってきた。洗濯女は洗いかけのシャツを投げだし、水売りは桶を置いた。熱気は広場から街路へ路地へと広がってゆき、物乞いも足のない者も、吸い寄せられてきた。
その熱狂の中心に、一人の男がいた。人々の頭より一段高いバルコニーの上で、彼は充分に広場一杯に密集した人々を見渡し、己を呼ぶ声が期待の沈黙に変わるまで、ゆっくりと待っていた。やがて声が静まってくると、彼は両手を上げた。天に届くほど高く。
「諸君!」
鋭い声は群衆ひとりひとりの腹の底に響いた。
「我々は、ここに集まった第三身分、貧しい者忘れられた者、洗濯のために手が傷だらけの者、荷担ぎの重さで肩が砕けた者、日々どれほど働いても子どもにパンを与えられない者、愛する者が苦しむのを黙ってみているほか無い者、それが我らだ!」
声が途切れると、群衆は拳を振り上げ叫んだ。そうだ!そのとおりだ!
「我らはただ、日々神に与えられた役割を忘れず働き、誘惑に負けず、家族を養って幸福に暮らしたいとそれだけを願って生きてきた。麦の種をまき水を与え耕した。妻は衣服を繕い、子どもの安らかな寝顔を見ている。そのような幸福が嘗てはあったはずだ」
女たちの膝が崩れ、すすり泣く者もいた。
「それを誰が壊したか」
それは――それは。群衆が呼応する。
「貴族だ!」
悲鳴と怒号が広場を埋め尽くす。
「貴族たち、あの者達が食べているパンは誰が作ったのだ?誰が種をまいたのだ?我らが冬を越す外套すらないのに、金糸で刺繍した服を着ている。その布は誰が織ったのか?我らが飢えているときに、贅沢な食事をし、何も生み出さず、外国の男との密会に明け暮れ、膨大な国費を浪費し、今、この瞬間にも!」
貴族だ、王妃だ!あいつら――あいつらが全部。
「ただ貴族に王族に生まれたというだけで、外国の女が国政を我が物とし、民衆から奪い取った富で腐った生活を送っている。何故だ。我々が第三身分に生まれたからか?生まれた時に全ての運命が決まっていたというのか?」
違う!それは違うぞ。俺たちだけが何故虐げられなくてはならないんだ。間違っている、間違いは――。
「そのようなことは、無いのだ。断じて!」
そうだ、俺たちは。
「人はみな――平等だ!!」
群衆は足を踏み鳴らし、拳を振り上げ、荒波に乗るかのような大きなうねりを作った。声は広場だけでなくその街区全体に広がり、集まっていない者もふり返り耳をそばだてた。
「人はみな平等なのだ!貴族だけが特権を振りかざしていいはずはない。我らにも生きて幸福になる権利がある!我々に権利を!自由を!力を!!」
人々は口々にロベスピエールの言葉を反芻する。広場にいる人間だけでなく、口伝えに聞いた者にも伝播した。自由を、力を、俺たちに――。
「貴族がこの真理に抗うなら、倒さなければならない」
そうだ、あいつらを倒せ、倒せ!
「古い世界にしがみつき、我らを迫害する者達を」
倒せ倒せ倒せ――殺せ!
「倒すのだ!排斥するのだ!諸君、私に力を貸してくれ!!」
倒せ倒せ殺せ殺せ殺せ。彼なら、ロベスピエールならやってくれる!ロベスピエール、ロベスピエール!!
残酷な歓喜の声は地を揺らし、木々を震わせ、鳥がおびえて飛び立った。

狂乱の渦の中で、オスカルは呆然としていた。これほどの熱狂と、貴族に対する怨嗟。ヴェルサイユでは肌で感じることのなかった、腹の底からの怒り、凶作による飢え、虐げられた積怨。これは三部会を開いただけで収まるのだろうか。いや、三部会が民衆の望むような結果にならなかったら・・その時は。
オスカルは知らず、広場を離れていた。貴族が見ている国と、民衆が思う国はここまで隔たっているものなのか。衛兵隊の部下たちの顔が思い浮かぶ、彼らも・・もしかしたら。

 

そのような騒ぎを知らず、神父とフランソワは帰途についていた。神父が日を改めて、前に住んでいた家に案内しようと言ったが、フランソワは首を振った。
「いいんです。もう母さんは・・いないんだから」
「そうか・・」
「教会に帰ります。そうだ、アンドレにもっと字を教えてもらって、アンリに手紙を書きます」
「それがいい、アンドレも探しているよ」
二人が教会に戻ってもアンドレはいなかった。カフェの主人に訊いたが、まだ帰っていないという。
「もう、日も暮れたというのに」
神父は不安気に暗くなった空を見上げた。

 

「おい、川で男が上がったぞ」
広場の先で誰かが叫んだ。オスカルは弾かれたように叫んだ男を振り返った。

 

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