世界が明日終わるとしても-14

演説者がいなくなり、人々が散らばりだしたその時、広場の先の川べりで誰かが叫んだ。
「川で男が上がったぞ」
その声に、野次馬が集まってくる。
「どこだ?」
「あの橋の下だ。誰か警官を呼んで来い」
飛び交う声にたちまち川べりに人の山ができる。オスカルは吸い寄せられるように、その人垣の後ろへ滑り込んだ。
「こっちに引き上げろ。どんな男だ」
「まだ若い、幾つくらいだ。黒髪で・・」
彼女の心臓は喉元までせり上がってきて、頭が割れるように痛んだ。
―――若い男・・黒髪
人垣を押して掻き分けるように前まで進んだ。濁った水から引き上げられた骸が、到着した警官の手で仰向けにされようとしていた。
―――まさか
水で重くなった服を忌々しそうに、警官が引っぱる。ようやく身体が上を向いたが、首はまだ河のほうを向いたままだった。周囲の音が聞こえないくらい、頭を叩く音は高くなっていく。
――あれは・・
顔を覆っていた黒髪が払いのけられる。
「誰か、こいつを知ってる者はいないのか」
警官の声が遠くなり、目の前がすうっと暗くなった。石畳に崩れ落ちながら、周囲の人間の中に、自分を呼ぶ声を微かに聞いた。
「隊長!」
一人の男が、倒れたオスカルの元に駆け寄ってきた。

「隊長、いったい・・どうしたんだ」
その声に聞き覚えはあるが、顔を上げられなかった。
「大丈夫だ・・何でもない」
だが言葉とは裏腹にオスカルは地面に膝をつき、口を手で覆って激しく震えている。夜目にもわかるほど顔から血の気が引いていた。
「何でもないって顔色じゃない」
「いや、本当に・・」
立ち上がろうとすると、身体が揺れた。眼を開けようとしても、視界の際から暗くなっていく。倒れこもうとした腕を掴まれた。意識が遠ざかっていく。

 

「先の暴動には扇動者がいたらしい、まだ特定はされていないが」
「失業者の暴動ではなかったのか」
「レヴェィヨンは専横的な雇用主ではなかったはずだ。それすら安全の保障になりえないとすると」
宮殿の白と金で彩られた扉の向こうでは、重臣たちが重苦しく顔を突き合わせている。しかし扉の外も、広大な庭の其処ここでも話されることは同じだった。
「領地ですら散発的に暴動が起きている」
「大きな声では言えないが、いっそ暫くイギリスに」
「王はこの期に及んでまだ決断されないのか、どこまで骨を抜かれれば」
重臣たちの言葉に、業を煮やした男が激しく卓を叩いた。その音に、皆が一瞬静まり返る。
「その王を守るために我らがいる。ならば為すべきことはひとつ!」
将軍は立ち上がって、気圧された男たちを睥睨した。
「――鎮圧だ」

 

―――アンドレ、何処にいる。もう・・会えないのか。
どれほど探しても彼はいない。呼んでも声は届かない。生きているのだろうか・・もし、あの川に沈んだ男のようになっていたら・・もう、生きてはいないとしたら。暗い沼の底にいるように、身体が冷たくなってくる。胸の奥が焼け付くように痛くなり、息を吸い込めなくなった。反射的に腕を伸ばして、空を掴む。
――アンドレ・・アンドレ、ア・・
「アンドレ!」
飛び起きた。荒く息を吐きながら、空しく何かを掴もうとしていた腕を見上げる。汗が額からひとすじ流れ落ちた。ここは何処だろう・・私は確か。
「気がつきましたか」
「アラン?どうして・・ここは」
「俺の家ですよ。ジャルジェ家には使いを出したので、暫く休んでてください」
「いや、面倒をかけた。自分で帰れるから・・」
オスカルは肘をついて上半身を起こしたが、それ以上の力が出なかった。起きようとすると、苦痛に顔が歪む。アランは慌ててオスカルの背中を支えた。
「今出ても、迎えとすれ違いになるだけだ。そんな青い顔をして帰せません」
すまない、そう答えようとしたが、胸の痛みに声がうまく出なかった。
「雨も降りだしてる。身体を冷やしますよ」
「衛兵隊は・・休暇を取っているのか」
「・・妹とお袋が死んでから、隊には行ってないんです」
「ディアンヌが?」
「ディアンヌは・・自殺だった。おふくろも後を追うように亡くなりました」
「それは・・気の毒だった。すまない、何も知らなくて」
「婚約者が貧乏な貴族でね。ブルジョワ娘の金に目がくらんで、妹を捨てた。あいつは・・相手を信じ切っていたから」
アランは窓辺に近づいて、篠突く雨を見ていた。
「さっきはロベスピエールの演説を聞きに行っていたんです。俺たちが、命を担保に軍隊に入るのも、信じていた者に裏切られるのも、何故なのか知りたかった。でも、判らなかった」

「俺たちにも生きる権利がある、平等だ。そうなれば素晴らしいのかもしれない。でもその時、誰が権力を持つんだ?貴族を倒した後に」
「貴族を・・倒すと?」
「貴族だって一括りじゃないですがね。泥水すすってブルジョワに靡く奴もいれば・・隊長みたいな人もいる。でも民衆にしてみれば同じだ。貴族がいるから俺たちが苦しい、そう煽る奴は自分に権力が行くよう誘導している。しかし皆、飢えてそんなことを考える余裕もない」
「それほどに・・か」
昨年来続く凶作と人口の流入で、パンの価格は信じがたいほど高騰している。穀物への課税や買い占めの噂も留まるところを知らない。
「飢えた者が夢を見てるんだ。革命だ、と」
「革命・・」
それは、もしかしたら・・。

 

鎮圧を、速やかに行わなければならない。遅滞は命取りになる。まず軍の増強、傭兵の補充、地方の連隊をパリへ、アルマン連隊、ロイヤルクラバート連隊、他には。治安維持の衛兵隊は、不穏な動きがある。その対処も考えなければ。
指揮を執る将軍は多忙を極めていた。ヴェルサイユで指示するだけでは足りず、パリへも出向かなくてはいけない。少数の近衛兵だけを連れて、宮殿から出た。その直後、伝令が駆け込んできたが、将軍を乗せた馬車は土埃だけを残して出立した後だった。

 

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