世界が明日終わるとしても-15

狭いアパルトマンの小さな窓を、雨が叩き始めた。二人とも黙って、雨の音を聞いている。
「雨は嫌いだ・・」
「隊長?」
「雨の音以外、何も聞こえなくなる」
雨の音の中、何度でも蘇ってくる。重い扉が閉じられた音、振り向かず去っていった彼の足音さえ聞こえなかった。
「やまない雨は無いよ」
「いつになったら・・・」
俯き言葉を無くしたオスカルにかける言葉が見つからず、アランも黙ってしまった。その横顔を見つめて、初めて会った頃のことを思い出す。

貴族女の気まぐれ、最初はそう思った。オスカルの前の隊長は典型的な貴族武官で、命令をすれば兵士は蟻の様に従うだけだと考えていた。食う為に兵役についている大半の隊士は、それが軍隊だと了解はしていたが、感情というものがある。
兵は馬か家畜と同様、そんな認識のもと横暴の限りだった前隊長の後任に期待などなかったものを。相手が女だとわかった途端、故の無い不満は倍増した。貴族で、将軍家の出自、そして・・女。それだけで敵意を抱くには充分だった。そして―――。
アランの胸に苦いものがよぎる。要するに、自分達もオスカルをその表層でしか見ていなかったということだ。それは平民であるというだけで、自分達を蔑んだ下衆野郎と変わらない。

偏見を取り除いてみると、オスカルは軍人として公正で有能だった。治安が悪化して勤務は過剰になっている。その中で兵士の不満を吸収し、無駄の少ない配置や訓練をする。オスカルも軍の一員である以上、自分だけの裁量でできることは限られているはずだが、できる以上のことをやってのけていた。オスカル自身をよく見ていれば、憎む相手としては不適当だとわかる。

しかしこれからは・・士官階級である貴族と不満がくすぶるばかりの平民兵士。その溝は深まりこそすれ、埋まりはしないだろう。ロベスピエールのような男が出てくるのは、それを求める民衆がいるからだ。オスカルひとりがどれほど兵士を思いやったとしても、崩れてきた堤を止めることは出来ない。貴族と平民が、今こうやって傷つけあうこともなく黙って傍にいられる時間は、もう無いのかもしれない。アランは身体を起こし、俯いたオスカルに声をかけようとした。その時、激しいノックの音がした。扉を開けると男が立っている。
「ジェローデル?お前がどうして」
「将軍に呼ばれてお屋敷にうかがっていました」
「父上に」
ジェローデルはアランに礼を言うと、すぐさまオスカルの腕を取った。
「オスカル嬢、話は後です。早くお帰りください、外に馬車を待たせてあります」
「・・何があった?」
ジェローデルはオスカルと眼を合わせようとしない。
「馬車の中で、落ち着かれたら説明します」
「ジェローデル、何があったんだ!」
「・・・・将軍が、暴漢に襲われました」

 

「僕、あの天使を見たんだよ」
教会で一人佇んでいるアンドレに、フランソワが近づいてきた。少年はステンドグラスを指さす。アンドレはカフェの主人から聞いた噂が気にかかり、しばしば立ち寄っていた。注意してみれば、周囲で教会や子どもたちに敵意にみちた眼を向ける者も確かにいた。それほどに憎悪が高まっているのだろうか、アンドレはいつもと同じように像を見上げながら考え込んだ。
「とても強くて綺麗だった。だから夜も怖くないんだ。アンリがいなくても・・寂しくない」
「誰のことだい」
「あの天使様、金色で光ってた。僕を助けてくれた、碧い眼の・・」
金色・・碧い眼の、天使?
「アンドレ、何処へ行くの」
フランソワの呼び止める声にも気づかず、アンドレが教会の外へ駈け出ようとしたその時、頭上でガラスの割れる音がした。

 

蝋燭の灯りが微かにあるだけの暗い部屋で、当主は寝台に横たわり夫人が手を握っている。オスカルは傍らに立って、息も浅い父親を見つめていた。怪我は致命傷ではなかったが予断を許さない。暴動鎮圧の総指揮官である将軍が狙われている、その情報は間に合わなかったと聞いた。
「オスカル嬢、部屋にお戻りください」
いつの間にか横に立っていたジェローデルが声をかけた。
「いや、私は」
「貴方まで倒れられては」
「いいのよ、オスカル。私がついていますから」
気丈にふるまう母を残して、オスカルは部屋を出た。付き添うジェローデルが顔色を窺うと、夜目にもわかるほど青褪めている。自室の長椅子に崩れるように座り、そのまま顔を伏せた。
「なぜ、こんなことに」
「暴動はいまやパリだけでなく、地方でも起こっています。将軍は断固鎮圧すべきと主張されていましたから」
「それでは犠牲が増えるだけだ、ジェローデル」
「はい」
「王妃様に謁見を願い出たい。今は無理だろうか」
「三部会が差し迫っていますし、王太子殿下のご病状も芳しくないようです」
「そうか。しかし、このままでは・・」
飢えた民衆の敵意が渦を巻き、暴力となって噴出しようとしている。ひとつでも対処を誤れば、暴動・・いや。
「・・革命」
「今、なんと?」
暴動ではなく革命だとしたら。パリやヴェルサイユだけでなくフランス全土が内乱になるとしたら。諸外国も手をこまねいてはいないだろう。戦乱に国が巻き込まれる。そうなれば・・その中で、彼は?

ジェローデルは、俯いて言葉を継ぐことのないオスカルの肩に手をかけた。
「オスカル、もうこのような無茶はなさらないと誓ってください。貴方の身に御父上のようなことが起きらないとは限らない」
「だが・・」
「・・アンドレのことですか」
オスカルの肩が震えた。
「パリだけでも何万の人間がいる、パリにいるとは限らない。それでも捜・・」
「違う!」
「ではなぜ、弱った身体でパリにいたのですか。アンドレは自分の意思で出ていった。それをどうしてあなたが捜すのか、貴方は彼を」
「違う、私は・・私はどうしても、彼に・・言わなければならないことがある。だから・・一度だけ」
一度でいい、会いたい。生きているなら、無事でいるなら。私の命がある間にそれだけを知りたい。
「もう、時間が無いんだ・・」
オスカルは床に膝をついた。もう会えないかもしれないという絶望から、また胸苦しさが迫ってくる。
「オスカル・・」
ジェローデルがオスカルの頬に触れると手が濡れる。
「私が彼を捜しましょう。パリを、いやフランス中捜してでも必ず見つけます。だから・・」
「だから・・?」
「今夜だけ私の妻になってください」
「・・・・ジェローデル」
「今夜だけです」

 

「・・・わかった」

 

 

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