世界が明日終わるとしてもー16

人々の怒号と共に、割れた色とりどりのガラスが降ってきた。三博士が聖母子が崩れ落ちてくる。そして・・天使も。
「アンドレ!何が」
「クエリ―神父、下がって!子ども達を裏へ」
驚き硬直しているフランソワの手を取って、神父は教会の裏手へ走り出た。表では石や棍棒を持った男らが騒いでいる。
――食べ物をよこせ!貴族からたっぷり貰ってるんだろう。俺たちの息子は飢えてるんだ。
口々に叫ぶ暴徒を入れまいと、アンドレは扉を力いっぱい閉め閂をかけた。しかし多人数でたたき壊そうとする衝撃にもちそうになかった。
「神父、子ども達を連れて逃げてください。ここにいては危険です」
神父の周りに集まった子ども達は、怯え青褪めている。泣き出す少女もいた。
「私は教会を捨てるわけにはいきません。彼らは信徒です。教会を襲うなど」
「ここの孤児たちが飢えていないことを知っている人間は大勢います。貴族の庇護を受けていると思われている」
「・・まさか、そんな」
「まずカフェの裏まで逃げてください。店主が匿ってくれます」
「アンドレ、あなたは」
「すぐに行きます。早く!」
扉を破る大きな音が響き、怒号と足音が近づいてきた。

 

雨が止んだのかもしれない、ガラスを叩く雨音が聞こえない。代わりに首筋が冷たく濡れている。どこかで雨に濡れたのだろう、だから胸が冷たい、息もしていない。鼓動も止まり、身体は石になってしまった。何も感じず、考えない・・。

「貴方は・・」
長椅子に横たえられ、口づけされてもオスカルは微動だにしない。
「貴方は、それほどまでして彼を取り戻したいのですか?今私に抱かれれば、彼を見つけても眼すら合わせられなくなるかもしれない。それでも」
「もう・・・言うな」
顔を伏せ眼をそらしたオスカルの声はか細い。
「愛しています、オスカル。貴方の心がどこにあってもいい。たとえ貴方が彼を・・」
「・・・違う」
俯いたままのオスカルの声はくぐもって聞こえる。
「私は彼を愛してない」
「オスカル?」
「・・愛してない」

 

愛してない。愛しているはずがない。これが愛である筈はない。こんな感情・・・狂うほどお前を求めて、お前を追って、身体中の血が悲鳴を上げている。それなのに私はお前を喰う夢を見るんだ。お前と共に牙ある怪物に喰われて租借され、その胃液の中でひとつに熔ける。そんなことを望んでいるんだ。これは、愛という名のものでは決してない。

「それが、恋情というものです」
「恋情?」
「恋する相手に・・触れたいと思わない者などいない。触れて、崩して、ひとつに熔けあって、その肉体の隙間に入り込んで・・貴方を」
ジェローデルの手がオスカルの肩に触れた。
「こんな風に、愛撫するのは、触れるのは・・この掌で貴方を溶かしたいからに他ならない」
彼の手が肌の上を滑っていって、胸元へと達した。柔らかな手・・ただその手は違う。

違うんだ。触れたいのは、触れられたいのは、この手じゃない。指、爪、関節、皮膚の色、全部違う。私が欲しいのはここに無いもの。お前だけだ、お前の生きて暖かい手に触れたい。その掌で私の頬を包んで欲しい。お前の黒い、夜の底のような隻眼を見つめたい。私の髪を撫でて耳元で囁いて。会いたい・・会いたい。狂うほど、今、お前に会いたい。

―――会いたい。
ジェローデルの唇が首から鎖骨に下りてきて、そこで止まった。
「アンドレ・・」
青い眼に溜まったものが、頬を伝ってひとすじ流れ落ちた。
「くそっ・・」
ジェローデルは長椅子の背を力いっぱい拳で叩いた。鈍い音が響いて、手の甲に血が滲んでくる。
「皆、愚か者だ!貴方も、彼も、そして貴方をこんなに追い詰めている私自身も」

「覚えていますか。私が以前この屋敷を訪ねたとき、貴方とアンドレとの間に奇妙な亀裂を感じた。それまで彼に対する信頼は絶対だったのに。私はひどく驚いて。だが、それなら、彼との関係が歪んでしまったのなら、私がその隙間に入り込むことができるかもしれない・・そう思った。彼を貴方から引き離すことができると。今となってはお笑いぐさだ。たとえ距離は離せても、心まで変えることはできない。判っていたはずなのに」

はじかれたように椅子から離れ、足早に部屋を出ようとして、ジェローデルは扉の前で背を向けたまま立ち止まった。
「・・彼は探します。愚かな男の最後の矜持ですよ。笑っていただいて結構です」
「ジェローデル・・私は」
オスカルの次の言葉を遮るように、扉が閉められた。馬車から館が見えなくなってようやく、彼は顔を覆って俯いた。肩が震えていたが、涙は零れていなかった。雨上がりの冷気の中を、黒い馬車は遠ざかっていく。

 

オスカルは窓辺に立ち、ガラスに映る己の虚像に触れてみた。掌の熱でガラスが曇る。
―――会いたいと・・触れたいと思う。呼吸を感じていたいと思う、この気持ちが・・。
肺の奥にせり上がってくるものがあった。抑えようとしたがかなわず、胸を抑えて膝が崩れる。咳き込みながら、喉の奥に錆びた味を感じて、掌を強く握った。
「私の・・・アンドレ」

雨はやんでも、風はまだ吹き荒れていた。掃き出し窓が大きく揺れて、ひときわ強い風に煽られ開いた。噴き上げる風に、梢と葉が吸い込まれていく。

 

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16話 番外編「泣き男」