愛の名においてー11

「殺してくれ・・」
「・・・何を・・言ってるんだ」

彼女は手を伸ばし、呆然としたままのアンドレの両手を捕らえて、自分の首まで持っていった。
「すぐだ・・このまま、力を入れれば」
「馬鹿な」
「お前なら容易いだろう、こんな・・力の無い細い首など・・一瞬で」

あの日――あの晩、圧倒的な力の差を思い知らされた。必死に抵抗しても、紙の人形のように意のままにされる。組み伏せられながら、自分はこのまま死ぬのではないかと思えた。あれほどの力を持ってすれば、絶命させることなど容易なはずだった。
「さあ、指を」
「しっかりしろ、どうしたんだ。何があった」
「明日になれば、父上は結婚の承諾を貰いに国王陛下の元へ行く・・私は、単なる女という入れ物になって、誰かを受け入れる日を待つことになる」
「・・・!」
「もう・・耐えられない・・こんな」

廊下を歩いていた足音が、一瞬、雷鳴に立ち止まった。将軍はその稲光に、末娘が生まれた日のことを思い出していた。その日もこんな激しい嵐だったことを。

「女に生まれたことが間違いだったというなら、何故、今更私を女に戻そうとする?そんなことをしても、ずれてしまった歯車は直らない。戻るとしたら・・生まれた場所へ。あの日へ・・男の名前がつけられる前に、戻るしかないんだ」

男であるべきだった。
貴族の常として親の決めた結婚でも、妻を愛していた。由緒ある帯剣貴族の後継者に恵まれない事も、その愛情に疵をつけるものではなかったのだが。生まれる前の子供を亡くしたことで、妻はひどい打撃を受けた。体の弱っている時に、周囲の心無い言葉が棘を刺し、自分を責めるようになった。やがて身ごもった時も、医者は子どもも妻の命も保証できないと、これが最後の機会だと。だから。

「生まれ出る寸前まで、私は希望だった。最後の、ジャルジェ家の嫡子として生まれるはずの希望。だがそれは打ち砕かれ、父上は、自分と母上と、何よりジャルジェ家を守るために・・欺瞞をとおした」
「愛した妻と家を守るためにやったことだという。愛情ゆえに犯した罪なら、許さなければならないのか・・黙って従って、神の前で誓いを立てて、夫を受け入れ子供を産むための・・女に戻れば・・それがジャルジェ家のためだと・・」

叩きつける雨の音が聞こえなくなった。轟く雷鳴も耳に入らなかった。彼はただ、目の前の美しい幼馴染の声だけしか聞こえていなかった。
――オスカルが女に戻って、夫を受け入れる・・そんなことが
白い首に置かれた手に次第に力が入っていった。
―――そんなことは・・耐えられない
青い眼が見開かれ、眉が苦しげによせられる。だが口元には奇妙な笑みが浮かんでいた。
―――耐えられない苦しみを、永劫に背負うくらいなら
指が、喉に食い込んでいく。
――お前を失うくらいなら!
「殺して・・このまま」

守らなければ。
将軍の頭の中には、ただそのひとことしか無かった。何を何の為に守るのか。守るほどの価値があるのか。そんな疑問はかけらも浮かばず、とり憑かれたようにその言葉に固執していた。

散らばった金髪が稲光に色を失った。その瞬間、アンドレの視界が真っ暗になった。続けて轟く雷鳴に打たれたように彼の指が喉から離れる。オスカルは苦しげにむせながら、咎めるように彼を睨みつけていた。
「どうし・・て・・止めるんだ・・」
声のする方に顔を向けても、彼の前は真の闇のままだった。これまでは、霞んで薄暗くなることはあっても、こんな風に見えなくなることは無かった。
「あの時は私がどれほど懇願しても、手を止めなかったお前が!」
「・・オスカル」
「何故・・」

――――助けてくれ
「あの時から変わってしまったんだ。全てが」
―――頼むから・・救ってくれ
「私が、女でしかないことに気づかせたのはお前だった」
―――ひとりで暗闇に落ちるのが恐ろしい
「男に力で敵うことのない、そんな存在だと」
―――どうか・・
「女に生まれたことが間違いだと・・気づきたくなどなかった!!」

「・・それは違うよ、オスカル」
彼の片方だけの黒い瞳は、彼女を通り越してどこか遠くを見ているようだった。
「何が違うというんだ。私が女に生まれなければ、お前だって私に捕われることはなかっただろう。全ては」
「女でも男でも関係ない。俺は・・」
闇が次第に崩れていゆき、かすかに明かりが戻ってくる。
「お前が男だったとしても、出会えばきっと愛していた」
ゆっくりと、目の前に、金色の光源が見えてきた。
「お前がお前である限り、何者であっても・・愛している」

私が女でも男でも?なら・・どうして。
愛してる、愛してる、アンドレが私に告げる。その言葉が私を噛み砕いて租借する。
愛を語るその同じ口を持ってお前は私を喰らったのに。いっそ憎んでいると言われたほうがよかった。憎んでいるからお前を裂くんだといわれたら、私は混乱しないのに。愛している?誰が誰を?憎んでいるのじゃなかったのか。

光が戻ってきた。暗い夜の中の生きていく為の光。
白い喉に薄い痣がついていた。その痕を消しさりたくて手を伸ばす。指先が顎に触れると、彼女の体が小さく震えた。俯いたままの頬から流れるものが指を濡らし手の甲に伝った。
「愛してる」
擦れた声が届いていないのか、オスカルは黙ったままだった。
「お前が・・何者であっても」

「いや・・だ」
「オスカル?」
「もう、言わないでくれ。その言葉を」
「愛しているという言葉が私を縛る。がんじがらめになって、もつれて、息もできない。父上もジェローデルも、そう言いながら私を拘束する。もう・・・もう、聞きたくない」

―――いつからこんなことになってしまった?
愛していると、言葉にしてしまいたかった。ずっとそのひと言を飲み込んできた。飲み込みきれず喉の奥にたまった石が、肉を破って爆発した。そして彼女が全幅の信頼を置いていた世界を壊してしまった。あの日から・・彼女に、潰れた黒い目に宿った闇を移したあの晩から。愛という名は彼女を傷つけるだけのものになって・・。
―――愛していると告げるたびに、俺はお前を追い詰めていたのか
蝋燭の明かりすらない部屋の中で、濡れた頬が浮かび上がっている。散らばる金髪、絹が濡れて貼りついた肩の細い曲線。手に入れたかった、触れたかった・・ずっと。
彼はオスカルの髪を手にとると口づけた。もう二度と触れられない。頬を寄せてまだ震えている肩を抱く。これで最後だ、もう・・・お前の傍にはいられない。濡れた服をとおして、密着したお互いの熱が伝わる。オスカルも彼の背中に腕を回し、力を込めた。伝わる体温で冷えた身体が次第に温まってくる。

オスカルは眼を閉じて伝わる温もりに浸っていた。割れた鏡のように砕けた世界の中で、この熱だけが唯一のよりどころに思える。このままでいて欲しい、愛の言葉ではなく、ただ沈黙で包んでいて欲しい。そうすれば、自分を縛る糸が融けて消えるような気がする。ここにいて、このまま・・熱だけを感じていたい。
触れていた頬をつと離して、オスカルは彼の前髪をかきあげた。ひきつれた傷痕に唇を寄せる。そこへ彼の唇が落ちてきた。束の間に、ただ、触れるだけの。微かに消えていく、淡いキスが・・。

雨の音がいっそう強くなり、他の物音が聞こえなくなった。その中に突然、雷鳴のような音を立てて、扉が開かれる。
「何をしている!」
彼らが声に振り返った時、扉の前に青ざめて立っている将軍がいた。

黒い部屋の中で絶え間ない稲光に照らしだされる二つの影。当主の目には、それが寄り添い溶け合っているように見えた。
「これは父上・・どうかなさいましたか。顔色がお悪い」
半身を起こしたオスカルはアンドレを押しのけ、ふらつきながら立ち上がった。彼が揺れる身体を支えようと手を伸ばしたが、オスカルはその腕を食い込むまで強く握っている。
「・・オスカル、お前は・・」
オスカルの顔に氷のような微笑が浮かんでいた。
「お前は・・お前達、ここで何をしている。これは・・」
「何を・・ですって」
アンドレが、彼女の肩を揺さぶった。だがオスカルはまるで気づかぬように父と向かい合ったままだった。
「オスカル、やめるんだ」
低い声でアンドレが制止する。だが、オスカルは答えない。父の顔から驚愕の表情が消え怒りに変わっていくのを、冷笑を浮かべたまま、ただ見つめている。
「お前達は私の信頼を裏切ったのか。いつからこんなことに」
「・・・・裏切った?」
「オスカル、やめろっ」
アンドレが彼女の肩を掴んで引き戻そうとしたが、オスカルはその手を切り落とすかのように激しく振り解いた。
「裏切ったのはあなたの方だ!」
「何だと?!」
「そうではありませんか!貴方こそ私の信頼を打ち砕いた。生まれたばかりの私に男の名を授け、由緒ある家系の嫡子として、貴方のあとを継ぐ者としてこれまで教育してきた。私は貴方の雛型だった、貴方の望むとおりに剣を振るえるようになるのが私の喜びだった。そうやってきた結果がこれだというのですか?今更女にかえって子供を産めと?私に・・愛してもいない男に身を任せて」
「何を戯けたことを言っている」
「貴方が命じているのはそういうことです。ジェローデルが気に入らないなら他の男でも構わない?貴族ならどんな男でも良いから寝ろ、そう言っているのと同じでしょう。違いますか。私の気持ちなどお構いなしに」
「だからなのか」
「何がです」
「お前は結婚の話を反故にするために、私を裏切るために、こんなことを・・」
「そのとおりだと言ったら・・どうなさいます」
「違います!!旦那様、ことの元凶は私です。私が」
アンドレが声と同時に進み出て、オスカルと父親を遮るように彼女の視界を塞いだ。その一対になった影は言葉より何より将軍を激怒させるに充分だった。
「誰が始めようが、起こってしまった事は同じだ。アンドレ、ばあやに免じて命を取ることだけは許してやる。今すぐ出て行くのだ。二度とオスカルの前に現れるな」
「父上、アンドレの主人は私です。勝手に」
「お前に人の主人たる資格は無い!」
「・・!!」
オスカルには返す言葉が無かった。父の叱責は正鵠を得ている。自分は己の都合だけで彼を翻弄し利用したのだ。父が自分の気持ちを汲まずに勝手な命令をしたというなら、自分こそそうだった。愛しているという彼の気持ちを逆手にとって・・。

躊躇し揺らぎ、声も出ないオスカルを、アンドレは苦しげに見つめていた。自分が始めたことがこんな風に彼女を追い詰める結果になった。幼い日に出会ったこと、ともに成長しそして、愛してしまったことが彼女にとっての災いにしかならなかった。
オスカルの傍にいることが彼女にとって苦しみの元でしかないのなら、逃げ切れないとわかっていても逃げ出すしかない。自分の全霊を縛りつける彼女の瞳を決して振り返らないように・・今すぐ。

黙り込んだ二人に苛立つように、将軍がオスカルの腕を取って彼との距離を開けさせた。アンドレが何か言おうとしたが、言葉を出せないまま、眼を落として扉に向かう。オスカルは父に腕をとられたまま、彼が静かに扉を開け、振り返りもせずゆっくりとそれを閉めるまで、凍りついたように動けなかった。
彼が行ってしまう?私をおいて?
「アンドレ、駄目だっ」
オスカルは渾身の力で父親の手を振り解くと、彼が消えた扉に走った。
「追ってはいかん!」
父の制止の声も耳に入らず、戸を開け放ち階段の上まで駆けつける。階下の重い樫の扉から彼が出て行くところだった。
「アンドレ!!」
声に打たれた彼の体が硬直した。ゆっくり振り返ったその顔には、真っ暗な絶望だけがある。二人は暫し見つめあった。だが彼は唐突に踵を返すと、音を立てて退路を断った。
―――行くな
心臓が裂かれた痛みがあまりに強いため、悲鳴が外へ出ない。声より先に体が動いた。だが階段を駆け下りようとしたとき、一瞬足が宙に浮いた。手すりを掴もうとする手が滑り、ぐらっと視界が揺れ、叩きつけられたような痛みを受けたところまでは覚えている。鈍い音が響いて体が転げ落ちるのを感じた。誰かの悲鳴が遠くに聞こえ、それからは・・漆黒の深遠に落ちていった。

END

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