世界が明日終わるとしてもー1

瞼が重い・・声だけが遠くから歪んで聞こえる。様々な音・・・囁き声・・・ひんやりした手が額に置かれるのを感じても、身体の中の熱は収まらない。骨という骨がぎしぎしした音を立てて、身じろぎするたび四肢がばらばらになりそうだった。痛みに少し意識が浮かび上がるが、眼を開けることはできない。ただ苦痛だけが身の内にあって、それを知覚する事で生きている。多分・・何かを待ちながら・・・・・。

オスカル、蜻蛉は触っちゃ駄目だよ
どうして?
生まれてすぐに死んでしまうんだ、この虫は。
身体の中には卵しかない。卵を産むためだけに生まれて来るんだ
――次の生に伝えるためにだけ生まれてくる生・・・喉元まで圧迫する白い・・・白い卵を抱えたまま

最初に視界に入ってきたのは、朝の薄暗がりだった。夢を見ていたように思ったが、記憶は眼を開けると同時に霧散した。オスカルは徐々に明るさをまして行く天蓋に、ようやく自分が目覚めたことを知った。ゆっくり顔を横に向けると、それだけでも背中に痛みが走るが、耐えて部屋の中を見渡す。誰もいなかった。見慣れたはずの天井がまだ少し歪んで見える。
“私はどうしたのだろう・・確か、階段で”
起き上がろうという意志はあるのだが、全身に力が入らず諦めるしかなかった。溜息をつくとまた痛みが蘇ってくる。左腕、右足・・そして下腹にも鈍痛がある。

“腕や足は折ったのか・・これでは馬に乗れない。しばらく軍務に復帰できないな。たかだか階段から落ちたくらいで。”
沈みそうになる意識を保つために、考えるべきことを紡ぎだす。
“意識を失ってどれくらいだろう。怪我をして出仕できないのは連絡がしてあるだろうが、アラン達はどうしている。せっかく良い方向に動き出した部下との関係が、こんなことで中断されるのがやりきれない。仕事は・・ダグー大佐がいるが彼ひとりに負わせるのも・・アンドレが”
オスカルの思考はそこで止まった。
“アンドレ、何処にいる?何故私の傍にいない?いつも・・どんな時でもお前がいるはずなのに”
心の奥から叫ぶ声が聞こえてくるが、彼女はその声に耳を塞いだ。考えなくても答えがわかっている問い、だがそれを受けいれられない。彼がいないということを。
閉じた瞼の裏に何度でもその光景が蘇ってくる。きしんだ音を立てて閉じられる樫の扉。その向こうに消えて行く影。消そうと思うほどに、繰り返し鮮やかに映し出される。
―――カレハ イナイ
信じたくなかった
―――カレハ モドッテコナイ
自分が彼を追い詰めたから・・彼を利用したから・・。
オスカルは腕の傷みにもかまわずに、手で顔を覆った。掌に隠された表情が歪んだのは、傷の疼きだけではなかった。

やがて、扉の開く音とともに部屋に入ってきたのはジャルジェ夫人だった。夫人はオスカルが目覚めていることに気づくと、寝台に駆けより娘の頬に手をあてた。
「オスカル、目が覚めたのね。もう5日も意識を失ったままで・・良かった」
「母上、どうして・・私は」
「貴方は、階段から落ちて肺炎も起こしていて。昨日ようやく熱が下がり始めたの。無理して話さなくても良いわ。まだ苦しいでしょう」
オスカルはまだ何か言おうとしたが、確かに声を出そうとするだけでも胸の奥が苦しかった。諦めて眼を閉じ、寝台に沈み込む。与えられた薬を飲み込むと、目覚めた意識とともに、身体中の痛みが動き出した。荒くなる息を静めようと眼を閉じ、深く呼吸しているうちに再び意識が遠ざかっていく。

「オスカルは、眠ったのか」
「ええ・・・貴方、お願いですから今は何もおっしゃらないでください。オスカルの回復を待って」
誰かが話している声が聞こえたが、瞼が重くて開かなかった。
「それくらい判っている」
「まだ熱も引いていません。何をそんなにお急ぎになるのですか。オスカルの意思を確認してからでも遅くはありませんでしょう」
「私が決めたことだ。国王陛下にも王妃様にも事情を説明した。もう後戻りは出来ん」
「貴方・・」
それ以上声は聞こえない。何か大事なことのようで、意識を保っていたかったが、どうしても目覚めることが出来なかった。やがて深く沈んでいく。

「アラン、どうしたんだ?休暇は明後日からじゃ」
衛兵隊の兵舎の中、慌しい様子で荷物をまとめているアランに気づいた兵士が声をかける。所属する中隊の休暇は何度か延期になっていたが、ようやく2週間ほどの休暇に入ることが決定したばかりだった。
「ディアンヌのことで何かあったらしい。連絡がきて。ダグー大佐には許可をもらったから少し早いが家に帰る」
「結婚式のことで行き違いでもあったのか」
「判らないが、嫌な感じがする。悪いな、隊長も怪我で休んでいてばたばたしてる時期に」
「いいさ、心配だろう。早く帰ったほうが良い」
アランは手早く支度を終えて、兵達に見送られながら兵舎を出ていった。ふと門のところで立ち止まり、司令官室のある棟を振り返る。隊長は怪我をして、暫く出仕できない。ダグー大佐からはそれだけしか伝えられなかった。それから五日あまり・・オスカルが生半可なことで休むとも考えられない、よほど悪いのだろうか。気がかりだったが、アランは頭を振ると、結婚を待つばかりの妹のもとへ急いだ。

ジャルジェ家の門の前で蹄の音が止まり、当主に来客の用向きが告げられた。将軍はしばし逡巡していたが、客を通すように返答した。会わずに済ませるわけにもいかない。だが、この事態をどう説明したものか。
客間にはいると来客は待ちかねたように将軍の前に進み出た。
「将軍、オスカル嬢はいったいどうなされたのです。軍務でヴェルサイユを離れていましたので、急ぎ帰ってきたのですが」
「ジェローデル少佐、掛けてくれ」
「オスカル嬢にはお会いできませんか」
「階段から落ちて、左手と足の骨にひびが入っている。それと、肺炎を起こしていたのだが、今は快方に向かっているのだ。ともかく落ち着いてくれ」
「・・・・申し訳ありません」
ジェローデルは崩れ落ちるように椅子に沈みこんだ。馬で駆けてでも来たのか髪が乱れ、憔悴しきっている。
「詫びなければならないのはこちらの方だ。仕事を切りあげてきたのかね」
「状況がわからずに気が急いていたもので。怪我をして意識不明だとだけ聞いたのです。今は、眠っておられるのですか」
「ああ、一度目を覚ましたが。薬も効いてよく眠っている。このまま熱が下がれば大丈夫だろう」
「何故・・」
ジェローデルは改めて眼前の将軍を見据えた。尋ねて良いものかどうか。
「何故そんなことになったのです」
「オスカルは、私と口論して部屋から飛び出し、階段から落ちた。その前に随分長い間、雨の中にいたらしい。身体が冷えきっていたので眩暈を起こしたか、あるいは」
「口論というのは、結婚のことで」
「それは違う。いや・・・それもあるのだが」
将軍の肘掛を掴んだ指が、力を入れすぎたために白くなり、小刻みに震えていた。娘の婚約者に、どこまで伝えるべきか迷っていた。自分が今伝えたことは、事実かもしれないが真実とはほど遠い。何もかも嘘で取り繕うべきか、それができるならもっと楽だろう。だがありのままを伝えることは、絶対にできない。
「失礼しました、将軍。わたしが立ち入ることではありませんでした」
気配を察したジェローデルがそう言うと、将軍は安堵した。何かの重い膜をかけたまま二人ともしばし黙り込んだが、先にジェローデルが口を開いた。
「眠っておられるなら・・顔を見るだけでも叶いませんでしょうか」
「ああ、かまわんよ。あれには母親がついているから、案内しよう」

二人が部屋にはいると、ジャルジェ夫人は黙ってジェローデルに会釈し、自分が座っていた場所を彼に譲った。天蓋の下で眠る顔は青ざめている。息は小さく全く動かないオスカルを前にして彼はショックを受けた。手を伸ばしてそっと頬に触れ、暖かい熱があるのを確認する。
「オスカル嬢・・」
ジェローデルは肩を落とし、両手で顔を抱え込んで深く息をついた。

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