世界が明日終わるとしてもー2

子どもがいる。ひとりで丘の上に立っている。どこからか鐘の音が・・。

どこから聞こえてくるのか。そう思い彼は眼を覚ました。
―――お前が生まれたとき、世界中の鐘が祝福のために鳴り響くのが聞こえたわ。
幼い彼にそう語った母の弔いの日も、鐘の音が響いていた。

安宿のくすんだ天井を見つめたまま、彼は起き上がれずにいた。目覚めているのに、鐘の音はまだ続いていて、夢の続きにまだ留まっている気がした。頭を振って身体を起こすと、もう陽が昇っている。宿から働いているカフェに行く道筋に、教会があったことを思い出した。古びてはいるが重厚な建物は、彼が幼い日を過ごした村のそれに似ていた。

外へ出ると曙光が眩しい。眼を細めて彼はいつもの道を歩き出した。パリの大多数の者は困窮しているとはいえ、若い男なら自分ひとりの糧を得ることくらいはできる。
――だがそれも、いつまで続けられるものか
眩しさに掌で陽を遮ると、一瞬視界が暗くなった。眼をこすりもう一度はっきりと瞼を開ける。正面に歳月を感じさせる石の教会があった。見上げるとステンドグラスが赤く陽を反射している。彼は暫く立ち止まっていたが、重い扉を押して中へと入っていった。

明るい戸外から入ると、中はいっそう暗い。薄明かりの中でひときわ鮮やかに燃えるステンドグラスが眼に入った。大天使ガブリエルと聖母マリア。横顔を向けた天使の波打つ金髪が、朝の光の中に浮かび上がっている。
―――オスカル
距離が離れれば心も離れるのかと、そう願っていたものが。離れ日が経つごとに、いっそう想いがつのる。名前を思い起こすことすらやめようとしたのに。何処にいても、何をしていてもどこかに影を見つけてしまう。

ようやく教会から出てきたアンドレは、膝が崩れるように石段に座り込んだ。
会いたい、声が聞きたい、触れたい。離れているこの一分一秒が耐え難い。逃げ切ることも戻ることもできなければ、何処へ行けば良いのか。ただ漂うだけの人生をこれからずっとおくるのか。立ち上がり、聖堂を仰ぎ見る。多分、これから何度も訪れてしまうだろう、その場所を。そのとき突然背後で声が響いた。
「フランソワ・・フランソワ!何処に行った」
彼が驚いて振り返ると、僧服の男が慌てた様子で走ってくる。
「あの・・すみません。子どもを見かけませんでしたか。7歳の男の子です」
「いいえ」
「そうですか、失礼しました」
神父が走り去ると彼は溜息をついた。
「フランソワ・・か」
歩き出そうとしてふと、先の路地の暗がりに人影を見つけた。栗色の髪の小柄な子どもが、顔だけ出して神父の去った先をうかがっている。気づかれないように子供のそばまで行くと呼びかけた。
「フランソワ?」
子どもははっとしてアンドレを見上げた。身を翻して逃げようとする腕を捕まえる。
「離せよっ!」
「どうして逃げるんだ。神父様が探していたぞ」
「行かなきゃならないところがあるんだ。離してよ」
振りほどこうとする子どもの抵抗に苦心していると
「ここにいたのか。良かった」
あの神父が心から安堵した様子で二人の後ろに立っていた。
「フランソワ、とりあえず一度帰りなさい」
「帰る?帰るって、違うよ。僕の家はあそこじゃない」
「やっぱり、家に帰る気だったんだね」
「・・・・」
子どもは今は大人しくなり、黙ってうな垂れている。
「フランソワ、もうあの部屋には別の人が住んでいる。それでも行きたいなら後で私が一緒に行こう。子どもの足では遠すぎて迷ってしまうよ」
「もう・・・いいっ!」
言葉じりに涙を滲ませて、子どもは教会の裏へ走って逃げた。それから荒々しく扉が閉まる音がした。
「申し訳ありません、お手間を取らせました」
「いえ、そんなことは。しかしあの子はどうしたのですが」
「私の教会は、幾人か孤児を引き取っておりますので。フランソワは母親を亡くしたばかりなのです」
神父はもう一度彼に礼を言うと、子どもの後を追って教会へ入っていった。アンドレは再び歩き出したが、子どもの顔がなぜか脳裏から去らなかった。

「もう、起きておられるのですか」
「起きているといっても、まだ寝台の上だ。情けないことこの上ない」
昨日まで顔色も青く臥せっていたオスカルが、寝台の上とはいえ起き上がっていることに、ジェローデルは安堵した。だが、声にまだ張りが無く、肩にかけられたガウンの下で左腕が固定されているのがわかった。
「あまりご無理をなさらないでください。完治されるまでは・・」
「骨が折れているわけじゃない。早く治さないと、騎馬もできないからな」
オスカルの声には苛立ちが含まれている。

もう幾日、寝台の上で過ごしたのか。無為に過ぎた時間を考えると、ただ焦りばかりが先に立つ。寝台に括りつけられている間は、世情のことなど何ひとつ耳に入らなかった。だが自分が臥している間に、混乱した情勢が好転しているとは思えなかった。
「足さえ立てば、すぐにでも軍務に復帰する勢いですね。でも暫くは衛兵隊のことはお忘れなさい。治すことに専念する方が先です」
母も侍女達も、そして毎日のようにやってくるジェローデルさえも、彼女には何も告げようとしない。ただ早く回復するようにと、そればかりを繰り返す。確かに彼や母の言うとおりなのだが。だからといって仕事のことを考えなければ、他に何を・・。考えるだけではどうにもならない、堂々巡りの中に陥るのが怖い。眼を閉じれば何度でも蘇ってくる光景。その事を考えずにいるためにも、はやく軍務に復帰したかった。
「オスカル嬢・・お加減が?」
「いや、大丈夫だ。それにその呼び方は止めてくれ」
「お気に召しませんか」
オスカルは答えず横を向いた。
「呼び方、呼ばれ方は案外重要ですよ。周囲からかけられる言葉が知らずその人を形作っていくこともありますから」
「それではお前は、私を”マドモアゼル”という形にしたいということか」
「そういうわけでは・・」
ジェローデルの表情から笑みが消え、沈痛な面持ちになる。
「・・すまない。言い過ぎた」
“私の方こそ”そう言って、ジェローデルはオスカルの手をそっと取り、甲に口づけた。オスカルはそれを振り払う力が出なかった。

ジェローデルが部屋を出ていくと、オスカルはぐったりと枕に拠りかかった。怪我をしたというだけでは、理由にならないようなだるさ。誰か傍にいるときには気を張っているが、ひとりになった途端力が抜けていく。
―――身体の血が、半分無くなってしまったような気がする
南向きの窓にもう太陽の姿はなく、西に沈んでいこうとしていた。オスカルはただぼんやりと、窓に映る夕陽の朱を見つめている。
―――また、日が暮れる。どうしている。いったい何処へ
出ていった男の残像を追い払うかのように、オスカルは首を振った。名前を呼びたかったが、心の中でさえ呼ぶことが躊躇われた。
―――帰ってこないつもりだろうか。彼は・・。
顔を覆った手の間から、透明な露がこぼれ落ちる。もう日はすっかり暮れていた。

ジェローデルが屋敷を辞そうとした時、当主の帰りが告げられた。
「少佐、来ていたのか」
「将軍、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
将軍の眉がこころもち上がったが、彼は気づかないふりをした。
「ああ、では私の客間へ」

「オスカル嬢は余り快復してはおられませんね。話すときはかなり無理をしておられる」
「そうなのか」
「あの方は昔から・・苦しくても人に気取らせることはありませんでしたから」
ジェローデルの言葉の中に微かな非難を感じ取って、将軍は黙り込んだ。あるいは、自責の念がそう感じさせただけかもしれないが。
「・・何か話があるのかね」
「今日、王后陛下に呼ばれました」
ジェローデルは言葉を繋げずに、将軍の反応を伺っていた。葉巻に伸びた手が一瞬止まったように思えたが、暗がりで表情はわからない。
「オスカル嬢の退役について、私の知っていることはないかと」
「・・・」
「ご説明いただけませんか」
将軍は答えないまま立ち上がり、ジェローデルに背を向けて窓に近づいた。暗い空に雲がちぎれるように流れていく。

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