世界が明日終わるとしてもー3

――この話は私が預かります。
王妃のひと言で、将軍が願い出たオスカルの退役の話は宙に浮いた形になった。
怪我のため軍務への復帰が難しくなり、内々にジェローデル大佐との結婚話も進めているので退役させたい。そう語る将軍の話を黙って聞いていた王妃の答えは意外なものだった。
「オスカルは承知しているのですか」
問われて、将軍は一瞬言葉に詰まった。王妃はそのまま人払いをすると将軍に改めて向き直った。
「ジャルジェ将軍、わたくしはハプスブルグの皇女の責務として14歳でフランスに嫁いできました。会った事もない方と結婚し、ふたつの国の繋がりとなる子どもを産むことだけが責務だと教えられ、これまでの人生を歩んできました・・・・そのような立場に生まれついたことに後悔がなかったといえば、嘘になります」
「王后陛下!」
将軍の声が高くなったが、アントワネットはかまわず語り続けた。
「オスカルは私とって忠実な臣下であるばかりでなく、とても大切な友人です。オスカルが衛兵隊に移ったとしても、私達の友情に変わりがないことを信じています。だからこそ」

「オスカルの意思を私自身で確認したいのです。あれほど軍と王家に忠実だったオスカルが、退役し結婚して・・今までと違う道を進むことを承諾しているのなら。彼女がそれで幸福になるなら、私は心から祝福します・・将軍」
アントワネットの声は静かだが、毅然としたものがあった。薄い青の瞳にまっすぐ見据えられると、将軍は思わず目を伏せた。
「時間がかかってもかまいませんから、オスカルが快復して、伺候できるほどになったら、話をさせてください。大切な友人が・・私と同じ後悔をしないように」
その言葉に将軍は否とは言えなかった。

腐りかけた木の雨樋から、滝のように水が落ちてきた。彼は咄嗟に避けたが、結局袖を濡らしてしまった。夕方まで降っていた雨がようやくやみ、雲の間から月が覗いている。早朝から夜のふけるまで働いて、宿に帰る途中だった。
彼が人を雇いたがっていた今のカフェに申し出た時、主人は暫く彼を眺めやっていたが、おもむろに前掛けを差し出して、仕事の説明をした。夜半、店の戸を全て閉めてから
「明日は8時だ」
と伝えると、彼は日の出からでかまわないといった。
「稼ぎたい事情でもあるのか」
「いえ、ただ働いていたいだけです」
「・・・お前さんは客あしらいが上手いし、のみ込みも良いようだ。読み書きもできる。保証や紹介が無くても、他に楽な仕事がありそうなものだがな」
「食べれればいいんです。身体を動かしていれば、余計なことを考えずにすむ」
「そんなものか・・朝は準備もある。手伝ってくれればありがたい」
彼は主人に礼をいい、それからはそのカフェで働いていた。

今日は、いつもより帰りが遅くなっていた。
パリのはずれにある地区では、パレロワイヤル近辺で見かける派手なアジテーションなどは少ないのだが。刷りあがったばかりの新聞を高く掲げながら、カフェの店先で数人の男達が声を荒げている。客達も殆ど者が外を向き、声高に意見を言いあっていた。
「人は生まれながらにして平等なのだ!!」
「我々の代表を国に送ろう」

「・・若い者は走りすぎだな。三部会が開かれたところで、何が変わる訳でもなかろうに」
皿を片しながら、店の奥で主人が呟いた。
「そうでしょうか」
「店を開いた18年前は、まだどうにかなると思っていた。オーストリアとの関係も良くなって戦争も無くなって・・だが俺は息子がアメリカで戦死してから、希望など持ったことはない」
主人は、いつもより大きな音をたてて棚に皿を並べていく。グラスがひとつ袖にあたり、床に滑り落ちて砕けた。アンドレは黙ってその破片を拾い集めた。やがて騒々しかった男達が去り、客も全て帰ってしまうと、主人は戸を閉めた。彼が挨拶をして立ち去る時、主人は奥の椅子に座ったまま背中を丸めていた。
彼は考え込んで足を止めていたことに気づくと、先を急いだ。華やかさとは裏腹にパリの夜は危険が多い。

教会のそばまで来たとき、木戸の開く音がして、教会裏の建物から誰か出てくる気配がした。静かな夜に小さな足音だけが響く。現れた人影は、月の下に立ち竦んで空を見ていた。吐く息が白くなければ、彫像と間違えそうなほどに微動だにせず、少年は月を見上げている。アンドレはその光景に覚えがあった。彼もずっと昔、ああやって立ち尽くしていた。

彼は足音を立てないように少年に近づき、静かに話しかけた。
「フランソワ、どうしたんだい」
少年の肩がびくりと震えて、彼を振り返る。一瞬警戒していた表情は、すぐに緩んだ。
「この間の・・」
「上着も着てないじゃないか。風邪をひくよ」
「持ってないから。でも夜は皆で一緒に眠るから寒くないんだ」
アンドレの眉が心持ち上がったが、語りかける声音は変わらなかった。
「それなら尚更、はやくベッドに戻らなきゃいけないな。君の隣の子が寒がっているだろう」
「・・うん」
「でもその前に、足をさすって暖かくしておくんだ。冷たい足で入ったら、隣の子が吃驚して君を蹴りあげるかもしれない」
アンドレが笑いながら言うと、つられて子どもも微笑んだ。
「アンリは寝相が悪いから、しょっちゅう僕のことを蹴るんだ。でもまだ小さいし、くっついてくるととても暖かいから・・僕、もう寝るよ」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
建物に入ろうとした少年は、戸口のところでふと足を止めて彼を振り返った。
「あの・・また会える?」
「近くに住んでいるんだ。また来るよ」
「待ってるね」
子どもが振る小さな手が扉の裏に消えても、アンドレは暫くその場に立っていた。狭い路地にも細く長い月の光が白く伸びている。彼はふと自分の足元にくっきり浮かんだ影に眼を落とし、それから影を作っている月を見上げた。
――この光だけは変わらない。どれほどのものを失っても、見上げればこの光だけは
雨樋の水が街路に零れ落ちて、小さな水溜りを作り、その中にも月が映っていた。

オスカルは瞬きもせず天蓋を見つめていた。やがて身体を起こして半分下ろされていた帳をあげ、月の光で白くなった部屋を見渡した。ここ数日は胸苦しさもなく、手足を動かしても四肢にひびく痛みは遠のいていた。
――これなら、明日は起き上がれるかもしれない。一日でも、一刻でも早く出仕しなければ。
オスカルは傍らの卓に上にある剣に手を伸ばした。掌に馴染んだ重さと冷たい感触が伝わってくる。
立ちたい、立ち上がりたい。横たわったまま無為に時を過ごすのが耐えられなかった。諦めが身体を侵食する前に、立ち上がらなくては何もできなくなってしまう。焦りがじりじりと背中を焼いて、オスカルは剣を握り締めたまま、まんじりともしなかった。

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