SAKURA

それは春のころ、咲き誇ろうとする花の下に二人はいた。
「美しいものだな」
彼女は木にもたれかかり、見上げながら言った。その木は彼女の肩のあたりで二股に分かれ、頭上では澄み渡って雲ひとつ無い空を背景に、いっぱいに枝と花が覆っている。薄紅色の花はひとつひとつは儚げなのに、爛漫と咲き誇ろうとする無数のそれらは言葉に出来ないほどの圧倒的な力を秘めているようだった。
「あと数日もすれば満開になりますよ、それは本当に・・空恐ろしいくらいの美しさです」
見上げる彼女の横顔を眺めながら、亜麻色の髪の男が答える。
「このまま・・」
言いかけて、ふと口ごもった美しい顔を彼は訝しげに見た。
「このまま・・何ですか」
彼女は頭上の花を見上げたまま、その青い双眸を閉じてつぶやく。
「このまま・・この花の下で、じっとしていたら・・花の中に融けて消えてしまいそうだ」
男はそれを聞いて、鳶色の瞳を細めて微笑み、少し悪戯っぽく言った。
「あなたがそんなに詩人とは知りませんでした。それとも・・恋をすれば誰しも詩人になるということですか」
彼女が彼のほうを振り向くと、微笑んでいる瞳と目が合った。苦笑して答える。
「そういうことかもしれないな」
そう言って小さく笑った。
「でも・・いけませんね」
「何が?」
さっきの男の言葉には感じられなかった真剣さが声に含まれている。
「あなたが花になって消えてしまったら、私はどうすればいいのでしょう。毎日この木に取りすがって泣き暮らさなければならない」
「ヴィクトール・・」
「そうして涙で木が枯れてしまったころ、ここで息絶えている私の姿が見られるでしょう」
まるでおとぎ噺でもしているような、穏やかな男の口調の中にまぎれもなく哀しみの響きがある。彼女はなんと答えていいかわからなかった。突然、暖かな春の大気を揺らして、風が通り過ぎた。
「・・・の木の下には」
「・・え?」
風に気をとられて、一瞬彼の声が聞き取れない。風は枝と花を揺さぶっている。咲き始めたばかりの花は、まだしっかりと枝につかまっていたが、それでも少しばかりの花びらが舞って彼女の金の髪に淡雪のように降りかかった。
「花がこんなにも美しく咲くのは、木の下に死体が埋まっているからだ。・・・誰かがそう言っていたのです」
風はまだ花を揺らすことをやめず、彼女は言葉も無いまま、恋人の瞳を見つめていた。
「色々な死体が埋まっていて、木の根はその身体に絡み付いて取り込み、それを養分にしてあんなにも美しく・・」
「ヴィクトール!」
彼女はこの陽光の下、なにかえたいの知れないものが側にいるような心地がして、たまらず彼の腕をつかんだ。男はそんな彼女を見て微笑むと、恋人を腕の中にかき抱いた。
「・・冗談ですよ。あなたがあんまり儚げなことをおっしゃるから、ついまぜっかえしたくなっただけです。・・でも」
彼は柔らかな手で、彼女の頬を包むと、顔を彼に向かせた。二人の間に散り遅れた花びらが落ちていく。
「あなたが消えてしまわれたら、私も生きておれません」
囁くようにそう言うと、彼は恋人の唇に自らのそれを重ねた。
「私の愛しい人、決してこの腕の中から離したくない」
彼女は彼の背中にまわした腕にいっそう力を込めることでその言葉に答えた。
もうなにも言葉は発せられず、ただお互いの腕と胸の温かさを確かめ合っていた。

いつか・・彼女は考える。
いつか、ふたりが泉の下へ行くことがあっても、同じ場所にその骸を葬って欲しい。その上にはこの花を咲かせる木があって、春には花が咲くだろう。私たちの屍骸を苗床にして・・。全てが朽ち果てても、花は咲く。花は実になり、また次の木を育てるだろう。私たちが誰の記憶から消え去っても、春のこの花だけは爛漫と咲くだろう。春が来る限り・・。

ふたりの頭上では、またひとつ花がほころび、春を歌おうとしていた。

END