世界が明日終わるとしてもー5

アンドレが教会についたのは約束の時間より遅かった。木戸をノックすると、待ちかねた子どもが飛び出してきた。
「待ってたんだ。今日は字を教えてくれる約束だよ」
「遅れてすまない。神父様も、申し訳ありませんでした」
「いいのですよ。フランソワ、先に部屋に行っていなさい」
「早くきてね」
子どもが部屋を出ると、神父はアンドレに向き直った。
「アンドレ、私は少し出かけます。下男がいますから、帰られる時は彼に伝えてください」
「お帰りになるまで待っていますよ。どちらへ」
「信徒の家です。一時間くらいで帰りますので」
出かける神父の背中には疲れが見え、アンドレは暫く彼が出て行った木戸を見ていた。

夜遅く、彼は教会の木の椅子にもたれかかり、微かな月明かりに浮かび上がるステンドグラスを見上げていた。朝には輝かしく浮かび上がるガラスの像も、夜は暗がりに沈んでいる。それでも彼には刻まれた横顔が見えていた。彼は眼を閉じた。潰れた左目はもとより、右の瞼の裏にうっすらと浮かんでいた光の残像はやがて消え、真の闇の中に、次第に白い影が浮かび上がってくる。揺らぐ輪郭はやがて金色に縁取られた人の影になって・・すぐ其処に立っているかのような確かな像になった。金色の髪の輝き、白く透ける肌の色。手を伸ばし、触れようとする。のばせば届くすぐそこに――彼女の香りが。

やがて正面の扉が開く音がして振り返ると、神父が入ってきた。出かけてから、もう数時間は経っていた。傍目にも憔悴した様子で、椅子に崩れこむ。
「子ども達をどうしたらいいのか」
アンドレが向かいに座っても顔をあげようとしなかった。
「喜捨が少なくなっているのです。これまで援助してくれていた貴族の方々は、もう無理だと言われるのです。どうかすると、教会を忘れている方もおられる。自らのことで精一杯で、孤児のことなどは」
神父は、片手で顔をふさぐように覆い眼を閉じて俯いた。アンドレは、此処で育てられている子ども達のことを思い起こした。
彼が知る限り、教会にいる子どもたちはさほど飢えてもおらず、ひどい病気も虐待もない。生き延びるだけで精一杯の、他の孤児院に比べれば格段にいい環境だった。だがそれもいつまで続けられるものか。世情の不安定さは、パリの隅々にまで影を落としている。しわ寄せが真っ先に弱者に向けられることは、理の当然だった。
「こんな時勢ですから。寄付を募るなら貴族ではなくブルジョワの、財のあるものの方がいいでしょう。貴族の内実はどんな大貴族でも徴税請負人ほどの財力はありませんし、教会に対する畏敬も少ない。家族的な経営をしている商店主か・・」
神父は淡々と語るアンドレの言葉に顔を上げた。
「あなたは貴族の屋敷にでも仕えていたのですか」
「何故です」
「事情に詳しい。読み書き以上の教養もあるようだ。あなたがフランソワの前で詩を諳んじているのを聞きましたよ。立ち居振る舞いも訓練を受けた人間のものでしょう」
「よく見ておられますね」
「様々な人と接しますから。人に寄り添い魂を救うためには、相手を理解することだと。誰に対しても眼を開けていなさいとよく私の師に言われた言葉です。私はまだまだです」
「いえ、私に対しては当たっていますよ。確かに・・・過去には」

彼は静かに歩いてきてアンドレの左に立つと、同じように暗い天井を見上げた。
「いつもあの天使を見ておられましたね」
「ええ・・」
「あなたは、あの像に何を見ているのですか」
アンドレは言葉を図りかねて神父を見返した。
「美しさに対する畏敬、あるいは憧れ。多くの人はあの天使にそういったものを見るようです。でもあなたはどこか違っているようだ」
月が隠れたのか、高い窓にはもう薄明かりすらなかった。彼はもう一度目を閉じ、暗がりの中になお鮮明に映る残像を確かめた。決して消えないその・・。
「・・私が見ているのは、過去です」
「過去とは」
「全て置いてきました。切り落として、忘れなければならないはずなのに。どうしても・・・消せない」
「過去を無理に消す必要はないでしょう。私は郷里を捨てパリで死んでいった人達に終油を授けてきましたが、誰もが、たとえ成功者でも必ず故郷を振りかえります。できれば、自らをはぐくんだ大気の中に戻って死にたいと願って」
「・・・・・」
「自分が拠って立っている場所を消さなくともいいのですよ。誰しも、過去があって始めてその人が形成されるのですから」
「それでも私は、自分の過去を肯定できません」
神父の片方の眉が心もち上がった。彼がこの教会に来るようになってから、幾度も話したことはある。常に穏やかで物静かな人間だと思っていた。だが今は。
「クエリー神父、人の一番重い罪はなんだと思われますか」
問いかけながら、アンドレはまた頭上を見上げていた。
「あなたはどう思っているのです」
神父からは横を向いた彼の表情が見えない。顔の左側は黒い髪に隠れている。
「・・・・・裏切りです」
神父は何か言おうとしたが、月の光を浴びることさえ苦痛に感じているようなアンドレを見ると黙ってしまった。

夕陽が窓を染めていく。常緑の樫の木も心なしか項垂れ、緩い風に影をガラスに映している。
“また一日が過ぎていく、せめてもう少し体力が戻れば・・”
窓に映る影を眺めていたオスカルはいっそう青白さが増した己の手の甲に目を落とした。深く息をついた時、突然、胸に鋭い痛みが走った。
痛みを知覚する前に呼吸と鼓動が一瞬止まる。反射的に息を吸おうとして力を入れると、上半身が跳ねた。知らず両手で胸を押さえ、ほとんど寝台の上に倒れこむ、引きつった声と激しい咳が同時だった。丸まった背中を痙攣させながら咳き込んだ数秒間の後、ようやく呼吸が戻ってきた。手で額の汗をぬぐい、力なく寝台に横になる。口の中に微かに血の味がしていた。

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