世界が明日終わるとしてもー4

その朝、オスカルの部屋の前まで来たジャルジェ夫人は、中で言い争う声を聞いて立ち止まった。扉を開けると乳母が困惑した顔で、オスカルの軍服を腕に抱えている。
「ばあや、それを渡してくれないか」
「いいえ、ラソンヌ先生か奥様の許可を頂いてからでなくては」
「私は子どもじゃないよ、自分の身体のことはわかっている」
「ですが・・」

「オスカル、何をしているのです?」
ジェルジェ夫人が入ってきたことに気づくと、乳母は心底ほっとした表情になった。彼女を下がらせると、夫人は娘に向き直った。顔色は青く、背筋を伸ばしているだけで精一杯のように見える。
「・・今日から出仕いたします」
「無理をしてはいけません。咳は治まっていないし、足もまだ痛むのでしょう」
「騎馬しなくとも、指揮は出来ます。熱も下がりました。これ以上休んでいることは」
「指揮官として、体調が万全でないまま務まりますか」
「しかし、母上」
「貴方が焦る気持ちはわかります。ゆっくり療養できないと思って、何も伝えなかった私達も良くなかったけれど。でも無理をしてまた倒れることになったら、どうしますか」
「・・・」
「今日はラソンヌ先生もいらっしゃいます。先生の許可が出てからになさい」
「いつまでです・・何時からならいいのですか」
「オスカル」
「もうこれ以上、黙って待っていることに耐えられません。ただじっと・・先の見えないことばかり考えて。今、動かなければ」
オスカルは椅子に崩れこんだ。夫人はうな垂れたオスカルに静かに近づくと、肩に手を置いた。
「・・お父様にもお話してみますから、もう少しだけお待ちなさい。横になっているのが嫌なら、せめて長椅子で休んで。何か飲み物を運ばせましょう」
「判りました」
夫人は部屋を出るときもう一度娘を振り返った。椅子の背もたれに身体を預けている額には汗が浮かび、顔は蝋のように白い。音を立てないように扉を閉めて、夫人は当主の部屋に向かった。どうやって話を進めれば、娘の望みがかなうのか考えながら。

「すまんな・・手間をかけた」
「かまいません。まだ顔色が悪い、横になっていたほうがいいです」
狭い部屋の寝台に横たわったカフェの主人に振り向きながら、アンドレは答えた。店先で倒れた彼を階上の部屋まで運び、横にさせてから暫く時間が経っていた。
窓から外を見下ろすと、もう人影はまばらだ。先刻までカフェの軒先で声を張り上げていた扇動家はどこへ行ってしまったものか。

近頃では珍しくもない光景だった。カフェや広場や、人の集まるところでは必ずと言っていいほど、政府を弾劾し民衆を煽るものがいる。この日もアンドレの勤める店のすぐ前で、一人の男が声を張り上げていた。
「ここまで財政が逼迫したのは、政府の無策のせいだ。貴族の乱費、無駄な戦争。どれほどの金がかかっていると思うのか。特に戦争だ。王族達の面子のために、若者達が戦争に駆り出された。そして残ったものは何だ」
いつもは言葉少なに店の奥にいる主人が、珍しく表へ出てきたことにアンドレは気づいた。その顔が青ざめていることも。
「若者達の犠牲の後には、巨大な戦費と疲弊した国だけが残った。イギリスには勝っただろう。だがフランスには空虚だけだ。戦地で命を落としたものは、ただ王の名誉のためだけの・・」
「やめろ!!」
男と聴衆は驚いて店の方を振り返った。
「それ以上何も言うな。俺の店から出て行け」
主人の握り締められた拳は細かく振るえ、今にもその扇動家に飛び掛ろうとするかのようだ。
一瞬気をのまれた男は我に帰り、いっそう声を張り上げた。
「何を言う。俺は真実を伝えているだけだ。独立戦争でどれほど」
「黙れ!お前に何がわかる。異国で倒れた者達が何を犠牲にしたか、知っているとでも言うのか?!」
正面から見据えた主人の気迫に、男があとずさりした。と、突然主人が胸を押さえかがみこんだ。
「どうしたんです」
アンドレが駆け寄ると、主人はうめき声をもらして床に倒れた。

「心臓が、悪かったんですか」
呼ばれた医者はいくばくかの薬をアンドレに渡し、暫くは安静にしているように言い残して帰っていった。
「昔から少しな。俺ももう年だ。無理はできん」
「働きすぎですよ。少し休んでも」
「そうだな。いや、だがあの店は」
主人は深く息を吐いた。
「あいつが・・女房のことだが、出て行ったのは息子が死んで半年後だった。生きているのか死んでいるのかもわからん。でも、もし帰ってきたら、帰ってくる気になって店の前を通りかかることがあれば・・」
「だからですか、倒れるまで」
「店の前に出ると、どうしても探してしまうんだ。似たような髪や声を。もう何年も経つのに。本当はとっくに終わっていると知っている、それでも・・通りの中の人影を追うことをやめられない」

「それでは・・何処へも行けないでしょう。終わったと判っているなら、踏み出さなければ」
「・・お前の言うことが正しいんだろうな。すまんが、少し眠るよ。もう大丈夫だから、教会で約束があるんだろう。行った方がいい」
「いえ、今日はもう」
「いつか小さな子どもが店まで迎えに来たじゃないか。きっと待ってる」
「すみません」
「今日は・・世話になった」
「いえ・・」
アンドレが戸を閉める前に振り返ると、主人はもう眼を閉じていた。彼は音を立てないように扉を閉め、ゆっくり階段を下りていった。
―――踏み出さなければいけない?それは、誰よりも・・俺自身に言うべき言葉だ
外はもう星が出ていた。

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