僕らがいた夏

僕は7歳だった。まだ世界は閉じられていた。屋敷と近隣の森しか知らず、王の君臨する宮廷も、そのもっと先にある世界も未だ何も知らなかった。

天井の高く薄暗い部屋。父が僕の肩に手を当てて、壁にかけられた肖像画を一つ一つ説明している。皆一様に剣を腰に下げ、口元を引き結んでいる昔の人達。
「オスカル、お前がこれを継ぐのだ」
僕が継ぐ。この人々の血が全部僕の中に流れている。だから出来るはずだ。もっと、もっと強くなって、勇ましい軍人になって、僕が家名と名誉を守る。僕だけが―――それができる。

煌びやかに着飾った姉達とともに、来客に挨拶をする。
「なんて美しい」
「天使が絵から抜け出てきたようだわ」
「神様にこれほど愛されている子供がいるとは」
初対面の客は一様に驚き賛辞を口にする。その感嘆の言葉を聞くたびに、胸に小さく石が溜まった。何かが違う。本当はそんな言葉ではないはずなのに。美しさを誉めそやされていいのは、女の人だけだ。男に対してなら何か違った言葉があるはずなのに。でもそんなことは顔に出さない。来客に不機嫌な顔をすることは無作法だと教わった。少し微笑んでおしまい。誰も僕の望む言葉は言わないのだから。

母のいる部屋はいつも暖かい。太陽の光も、母の部屋では何故か柔らかくなる。姉達が取り囲んで、新しい刺繍の仕方を教わっている。さざめく笑い声。
「オスカル、いらっしゃい」
母上が僕に気づいて、手招きをする。近づくと柔らかな掌が髪を撫でる。暖かくて、暖かくて・・・少し泣きたくなった。

屋敷の中に歳の近い子供はいない。皆一人前で働いている。姉達はいるけれど、剣は誰もしない。教師が来る時以外、僕はひとりで練習する。影に向かって。目の前に誰かいるつもりになって。間合いが取れなくて難しい。誰か相手がいると良いのだけれど。

ひとつ年上の遊び相手?なら、剣の相手でも良い訳だ。剣の相手、いつでも打ちあえる。早く“彼”が来るといいのに。遠くから来るので数日かかるという。何時来るんだろう。早く来れば良い。早く。

真っ黒だ。黒髪に黒い瞳が、真っ直ぐ僕を見上げている。僕もじっと彼を見ていた。彼は目を一杯に開き、ひどく驚いたような顔をしている。そういえば名前を知らない。僕はニ振りの剣を握りなおし、階段を下りながら名前を聞いた。
「アンドレ・グランディエ」
森の向こうから聞こえる鐘の音のように、良くとおる声だった。教会の聖堂の中で歌えばきっと似合うだろう。心臓の音が早くなってくる。やっと来た、やっと見つけた。僕の剣の相手。一緒に剣を打ちあえる。馬に乗る練習も出来る。今はまだ上手く乗れないけれど。彼と一緒ならきっと出来る。

彼は僕より少し背が高くて、馬に乗るのが僕より上手い。近くの家の馬の世話をしていて覚えたらしかった。でも・・それ以外は、剣は全く駄目だ。僕が始めて剣を渡した時-それは練習用とはいえお気に入りの剣だったのだが-何か不思議なものでも見るように、呆然としていた。剣の持ち方、振り方、足の動かし方、全部僕が教える。 彼は樹や花、僕が全く知らなかった小さな草の名前を沢山知っている。薬草とか役に立つもは特に詳しい。母親とずっと二人だったから出来ることは何でもした、覚えられることは何でも覚えようと思った、そう言っていた。そんな話をしていると、彼は突然黙り込んで、ふいに何処かへ行ってしまう。僕が呼び止めても、ごめん、と言ったきり暫く帰ってこない。そして次に顔を見たときはたいてい眼が赤い。
泣いてたんだろうと思う。でも――――男の子なら泣いてはいけないのに。姉達はよく泣くけど、僕は違う。剣が上手くならなくて、悔しくても泣かない。泣いている間に少しでも練習するほうが良い。たとえ、来客が僕を見ながら扇の陰で、“ジャルジェ将軍も酔狂な”と囁いていても。絶対に泣かない。そういう時は、外に行って樹の幹を思いきり叩く。拳で何度も、何度も。手が赤くなって、胸が痛いのか手が痛いのかわからなくなるまで。
一度だけ、母が僕のそんな手を見つけて、ひどく悲しそうにしていた。あの柔らかな掌で、そっと僕の手を包んで、痛くないのか聞きながら抱き寄せてくれた。その時はもう手は痛くなかったけど・・また胸が苦しくなった。
それでも僕は泣かない。決して。どんなに苦しくて、胸に石が溜まっていっても。

喧嘩をした。彼は剣がなかなか上手くならない。教師も彼には教えないから、結局僕が一つ一つ、教師がやったように彼に伝える。その日も彼は剣を取り落とした挙句、転んでしまった。落とした拍子に石にあたったのか、柄の一部が欠けて外れた。それを見て僕はかっとなった。こんな風じゃ、何時までも僕の剣は上達しない。もっと強くならなければいけないのに。彼が悪いんだ、彼が弱いから。男の子なのに泣くような、弱虫だから。そう言って。そうしたら言い返された。自分は僕の相手だけしてれば良いわけじゃない、もっと他に沢山仕事もある。きっぱりと言われた。最後には二人とも大声で言い合って、顔を見ないように反対の方向に駆けだす。頭ががんがん痛んだ。
厩舎に駆け込んだ。僕に与えられた白い駿馬がいる。戸を開けて苦労して鞍をかけ、外に連れ出す。何処かへ行きたい。遠くへ。誰も僕に声をかけることの無いような遠い場所へ。泣き顔を誰かに見られるのは―――いやだ。

心臓が喉から飛び出しそうなほど息が切れている。馬も疲れている。此処はどこだろう。全く知らない場所。でも水の音がした。馬から下りて手綱を引き、音のする方へ向かう。小さな川で馬に水を飲ませてしゃがみこんだ。知らない場所、知らない景色。此処にいるのは自分ひとり。ひとりひとりひとりで。汗をかいた身体を草の上で冷やす。興奮した心も冷えてくる。何故あんなに悔しかったのか、よくわからない。僕の相手ばかりしてるわけじゃない、そう言われて身体がかっと熱くなった。思い出すと喉の奥が詰まってきた。また、辛い。

頬にあたる風が湿っているのに気がついて、慌てて飛び起きた。眠ってしまっていたらしい、どれくらいの間?抜けるような青空だったのに、今は真っ黒な雲にどんどん覆われていく。夕立だ。雨を避けられそうな場所を捜す。近くに大きな樹があって、落ち着かない馬を何とかそこまで引っ張っていった。見る間にあたりが暗くなる。稲光が空を切り裂き、暫くたって大きな音が空いっぱいに響いた。後ずさると、背中に幹があたった。ざぁっと雨が叩きつけるように降り出す。馬が高くいなないて、肩が震えた。
遠くから声が聞こえる。
「早く!樹から離れて!」
雨音の向こうから叫び声がする。どこから聞こえたのかわからず、前に進み出た。途端に――凄まじい、耳の破れるような音が身体中に響いた。
「オスカル!!」
草の焦げる匂いがした。振り返ると、少し先の大木から煙が出ていた。

「オスカルは強いね」
背の低い潅木の繁みで、僕等は雨を避けていた。僕の馬は何処かに行ってしまっていた。雨はなかなかやまず、雷の落ちないような場所を捜したのは彼だった。僕達はただ黙って、雨音が次第に静かになるのを聞いていた。彼が僕のほうを振り返って、怖くなかったのかと尋ねる。知らない場所で雨と雷に閉じ込められて。怖くなんかなかった、稲光がすごく綺麗で見とれていた。そう答えたけど、半分は本当で半分は嘘だ。しばらく黙り込んだ彼がぽつりと言った。僕が強いって。

強い?僕が本当に?
「絶対弱音をはかないから。悔しかったり、どんなに苦しいことがあっても、絶対に泣き言を言ったりしない・・・・オスカルは、強いよ。僕は」

「僕はすぐ悲しくなる。昼は良いんだ。大きなお屋敷に住めて、みんな親切にしてくれる。仕事だってしんどい時もあるけど楽しい。オスカルと馬に乗ったり、剣の練習をするのも、嬉しいんだ。上手くならないけどね。ただ、時々、どうしても・・悲しくなる時があって」
雨はもう、葉の陰から落ちるだけになっていた。
「空を見て、とても青いと・・それだけで泣きそうになる。母さんと暮らしてた時と同じような空だから。教えてくれた樹の名前や、薬草を見つけたときも。気がついたら泣いていて、慌てて何処かの影に隠れるけど、泣くのが止まらない」
「僕はずっと母さんの手を握っていた。息が苦しそうだったけど、僕に出来ることが何も無くて。僕が呼ぶたびに少し眼を開けてくれて・・・でも開かなくなった。手を握っていたけど、握り返してはくれなかった」
暖かいてのひら。僕の髪を撫でる掌。それが無くなってしまう?あの優しい声で呼んでもらえなくなる。そんなことが・・あるんだろうか。僕はアンドレの横顔をじっと見つめた。黒い・・黒い瞳。でもよく見るといろんな色がある。この眼が、ずっと見ていたんだ。僕がまったく知らない、とても悲しいことを。

強いって、ずっとそう言ってほしかった。綺麗だとか可愛らしいとか、そんな言葉じゃなくて。僕は強くならなければいけないから。だから努力する、泣かない。ずっと・・そう思ってきたけど。違った。

強いのはアンドレのほうだ。剣が上手くならなくても、泣いていても、彼のほうが僕の――――何倍も強い。

雨が上がり、僕等は立ち上がって次第に晴れていく空を見上げた。アンドレが驚いた声をあげる。
「空がすごい!」
西の空一面が、見る間に色を変えていく。雲の切れ間からヤコブの階段が降りてきて、その先は、青と紫とかすかにオレンジと。その色は瞬きすればそこで変わっている。森の方からオレンジが強くなっていって、その上はさらに深い青。その青の中に宵の明星。ちょうど下あたりに僕の馬がいた。
アンドレを振り返ると、彼の顔が染まっている。涙がどんどん溢れてきていて、でも拭おうともせずただ泣いていた。
「アンドレ・・」
声をかけられると、彼は慌てて袖で頬を拭いた。
「いいんだよ、泣いても」

「泣いていいんだ。本当に泣きたかったら。大声で泣いた方がいいんだよきっと」
彼はほんの少し笑うと、両手で顔を覆った。その掌の間から、ぽたぽたと暖かいものが零れていく。 僕は彼の肩に手を置いて、ずっと変わる空を見ていた。綺麗だった。

きっといつかまた、こんな空を見ることが出来る。いつかきっと・・

END