まだ生きている

彼が倒れている。血に染まって。こんな光景は前にも見た。あの時も駆け寄って頬に触れて。暖かかった。口元に掌を当てると微かな息で手が湿った。だから今度もそうに違いない。彼は動かないけど。昨夜顔を埋めたばかりの胸も動いていないけど。私の髪を梳いたあの手も石畳に投げ出されたまま。それでも。

まだ生きている

生きているはずだ。彼が私をおいて行くことなんてありえないから。ひとりで先に逝くなんてそんな筈はない。手が濡れた。ああ、水を持っているんだ。彼が望んだから。早く持っていかなくては早く。右足を前に出す。何故だか出した足が痛い。左足。こちらも痛い。骨が石になったように軋んで動かない。彼の元に行かなくては、早く早く。また濡れた。袖の中を伝って腕まで湿っていく。彼に飲ませなくては。きっと喉が渇いている。全部こぼれてしまう前に、彼に渡さないと。こぼれるこぼれるこぼれる。石の足を前に出して進むんだ。彼が私を待っているから。いつだって待っていた。だから今は急がなくては。急いで彼のもとに、そして告げなくてはいけない。どんなに愛しているか。どれだけお前が必要なのか。話さなくてはならないことが沢山ある。ありすぎる。この先一生かけても告げきれないほど。だから眼を開けて。私を見て。私の名前を呼んでお前のその声で。彼が近づく。私が近づいてゆく。もうすぐその柔らかな口元に水をあげよう。飲んだら眼を開けてくれるだろうか。深く黒いお前の眼。左眼はとうに開かない。私が潰した。彼から奪った。そして右眼も。見えていない?何も?私の顔すら見えない?そんなことがあっていいのだろうか。いったい何時から、たったひとりで暗闇の中にいたというのか。ひとりで。私にはかけらも不安など示さなかった。果たしてそんなことが人に可能なのか。たったひとり暗闇の中で。お前はどれほど恐ろしかっただろう。だからこれからはずっと私がいるからお前の傍に。そう伝えなくては。まだ伝えてない何も言っていない。私はお前に充分に答えてない。だから彼は死んでいない。生きている。きっと生きている。指が動かなくとも。その眼が開かなくとも。まだ私がお前の傍までたどり着いていない。だから。

まだ生きている

私はまだ生きている。こんなにも死を欲しているのに。早く来てくれ連れて行って。私を彼のところまで。ここにいたくない。ひとり残されてこんなところにいるのは嫌だ。私はひとりでいる。彼はいない。届かないほど遠くへ逝ってしまった。其処へ行きたい。待っている早く来てくれ。私を撃って彼を貫いた同じ弾丸で殺して。傍にいなくては彼のそばに。彼はひとりで暗闇の中にいる。連れて行って。連れて行って。残されることはどれほどの悲嘆か。痛い。辛い。悲しい。苦しい。息ができない。声が出ない。涙が止められない。ただ一つの慰めはお前にこの思いをさせずにすんだことだ。お前は残されることを知らずに逝った。いや知っていたのか。幼い時親を亡くしたお前は。始めて会ったとき、小さな身で抱えきれないほどの悲しみを負っていたのか。私は何も知らず階段の下にいるお前を見とめた。黒髪の少年。それがお前だった。はっきりと良く通る声で名前を告げた。あれから長い時が経ちずっとお前は私の傍にいた。だから私は生きてこられたのに。お前がいなければ自分が寂しいことすら知らなかったかもしれない。寂しいと気づかないくらい寂しかった。お前に会うまで。私はまた寂しい。お前に会えなくて。声を聞けなくて。お前も寂しいのだろうか。傍にいてやりたい。何処にいるのだろう。ここにあるのはただ骸。抜け殻。これはお前じゃない。かつてお前であったけれど。何処にいる。捜さなければ。彼を捜さなくては。彼をひとりのままにしておけない早く。死よ早く来て私を連れて行って彼の元に行きたい私の願いをかなえてどうか早く、早く!なのにまだ。

まだ生きている

夜が明けた。陽が昇り死はこなかった。お前がいなくとも朝はくる。眼が見える聞こえる手は暖かい。生きているまだお前がいないのに。どうして。どうしてお前だったんだ。私のはずだった。お前には何の罪も無い。全ての罪はこの私。お前の眼を潰して。それでもお前を愛して。もっと早くお前を愛している自分の心に気づけば永らえただろうか、せめて幸福な時間が。何度でも繰り返し愛していると告げたかった。もっとお前に触れたかった。お前の身体を全部知りたかった。指、爪、腕、掌、肩、首筋、髪、耳、額、唇、胸、腰、脚の線、踝。今はもう失われて何も残っていない。残った骸も次第に失われて行くんだ。後には何も残らない。
ない。いない。お前がいない。だから生きていたくない。早く其処へ行きたい。それなのに。遠くから聞こえる人々の声が“バスティーユへ”と叫んでいる。暗い路地に倒れこんだ私の背中に、地鳴りのように足音が響いてくる。その人々の中に懐かしい黒髪を見つけた。彼だ―――彼だ!帰ってきた私の元へ。そうだ、彼がひとりで逝く筈は無い。微笑んだ表情。優しい瞳。その唇。髪。私が愛して触れていつもそばにあった。帰ってきた取り戻した。神よ感謝します。私は貴方を失うところでした。彼に幸福な時間を長く与えられなかった自分を苛み、その運命を与えた貴方を責めました。何故彼が。私ではなく彼が。私の筈だったから。血の中で息絶えるのは私のはずで。そう思って。でも彼は帰ってきた。私を呼んで私に話しかけている。今度こそ。今度こそ彼の傍にいける。手を伸ばして彼に触れ。いや。違う。違う彼じゃない。黒い髪だけれど、知っている男だけれど別人だ。でもこの声と言葉は確かに彼のものだ。彼が私に伝えたかった言葉。彼が私に立ち上がるよう言っている。立ち上がる?その力が私にあるだろうか。狂うほどお前を求めて追いたくて。それでも死はこない、生きている。ならば何か意味があるのだろう。私の生きていることが。何も終わっていない始まったばかり。立ち上がる。冷たい壁に手をつき重い身体を支えて石の足を踏みだそう。お前がそう望むのなら。お前がその眼で見られなかったものを私が見よう。だからどうか力を貸して。私を支えて。崩れてしまわないよう私が生きていけるように。お前が何処にもいなくても。私は生き続けなければならない。何故なら。

まだ生きているのだから

私は生きている。生き続ける。たったひとりで。生のある限り。

END