月光

天井の低い暗い部屋。灯りは風にかき消され、窓から差し込む光だけが白い。子どもが寝台の傍らに跪いて、誰かの手を握っている。その部屋で息をしているのは子どもだけ。寝台の上の母親は、うっすらと微笑んだまま動かなかった。
そして教会が。弔いの鐘の音が響き、夏の陽を反射して、ステンドガラスが光っている。見上げると、天使の白い羽はうっすらと金色を帯びて。いつの間にかその姿が金髪の一人の子どもに変わっていた。階段の上で、金色の光を浴びて立っている子ども。青い眼を輝かせ、真っ直ぐこちらを見据えている。凛とした声は天上の鈴のようだ。階段を下りてくる・・天使が・・金色の・・。

夜半眼がさめた。私の眠りはいつも深くて短い。眠りについて間もないはずなのに、何故突然目覚めてしまったのだろう。私は眠る恋人の顔を見上げた。彼の腕は私を包んだままだったが、その表情は安らかな眠りのそれではなく、どこかを彷徨っているようだった。私は不安になった。彼は今何処にいる。
「アンドレ・・」
小さく問い掛けた。彼の眉が一瞬歪んで、それからゆっくり瞼が開いた。
「ん・・ああ・・どうしたオスカル。眠らなかったのか」
「少し眠ったんだが・・目が覚めたんだ」
「眠った方が良い・・明日も早い」
「ああ・・」
彼は指先でそっと私の髪を撫でている。耳に届くのは彼の心音だけ。他にはなんの音もしなかった。
「・・夢を見ていた」
「どんな」
微笑むばかりで答えようとしない彼に、私は顔を近づけてキスをした。
「教えてくれないのか」
「とりとめの無い、ただの夢だよ。どんなのだったか。お前がいた気がする」
彼は私の髪に指を絡ませ、頬を掌で包んだ。温もりが伝わってくる。
「夢の中にも、目が覚めてからも、お前がいて・・どちらが夢か分らなくなる」
「・・胡蝶の夢だな」
「蝶の?」
「男が蝶になった夢を見た。夢の中で男は花の香りを嗅ぎ、蜜を吸い、野を飛び回った。目が覚めて男は思った。はたして自分は蝶の夢を見た男なのか・・それとも男になった夢を見ている蝶ではないのか・・」
「じゃあ、こうして、お前が腕の中にいる。これこそが夢かな。お前と出会って、愛しあって・・今までの人生全てが。今にも目が覚めて、全てが夢だった。そんなことにはなりたくはない」
暖かい夏の夜なのに、私は身震いした。眼を開ければ消える儚い蝶の夢。今この腕に感じる熱と、果たしてどちらが確かなのだろう。私は頬にあてられた彼の右手を両手で包んだ。
「私の手は・・暖かい?」
「ああ・・」
「私の唇は・・」
「暖かくて・・とても柔らかい」
「だからこれは夢じゃない・・そうだろう」
そうして、ひとつだけの黒い瞳を覗き込んだ。
「私も・・これが夢なんて嫌だ。こうしている時間が、いつまでも続いてほしい」

そんな話をした。昨日の晩のことだ。確かにおまえの腕の中にいて。
―――ダカラ コレモ 夢ニ チガイナイ
横たわる人間の中から、赤い暖かい血が流れだして石畳を染めていく。頬が白くなる、眼は開かない、腕も動かない。これが夢でなければなんだろう。お前が私をおいて逝くなんて。きっと・・夢だ。目が覚めれば・・眼を覚まして・・眼を開けて、名前を呼んで・・アンドレ・・・アンドレ・・アンドレ!!

「オスカル・・こんなところで寝ていると風邪をひくぞ」
声が聞こえても目を開けたくなかった。春の陽光が木漏れ日となって、閉じた瞼の裏にも眩しいほどだった。今目を開ければ、眩んでしまうだろう。でも、目を開ければ、お前の黒い瞳がすぐ前にあることはわかっている。少し心配そうな表情で覗き込んでいるはずだった。
だから、もう少し眼を閉じていたかった。このままお前の声と春の温もりに包まれたままで。
「・・オスカル・・眠って・・いる?」
声と息を間近に感じる。湿ったやわらかいものが触れるか触れないか・・感じる前にまた眠りのなかに入っていった。

「・・隊長、ベルナールが明日のことで話があると」
「え、ああ。そうか・・今」
「すみません。眠っていたんですか」
黒い瞳が覗き込んでいる。ただこの瞳は違う。黒い髪、黒い瞳、でも彼じゃない。肩に置かれた手も違う。何故彼がここにいない?違和感を持て余したまま、機械的に身体を起こす。
「俺が代わりに行った方が」
心から心配している声音に気づいたが、返答する声だけがどこか自分と違うところで出ているようだった。
「心配ない、大丈夫だ」
―――ダッテ コレハ夢ナノダカラ
立ち上がった。と、周囲の風景が暗転した。

宵の明星が西の空に輝きだす。私は丘の上にいて、後ろを振り返ったまま立っていた。
「ほら・・暗くなるから急いで」
「ちょっと待って」
「もう帰らないと遅くなる」
「母様、空が凄いよ。さっきまでオレンジだったのに今はもう紫だ」
私は西の空を見上げる。明星が輝き、朱に染まっていた空は、闇をつれた紫へと変わっていった。
「さあ、帰ろう」
「うん」
私は小さな手を握り、丘を降りていく。手の中にかけがえの無い温もりを感じながら。
家路のその先の、待っている人のもとへ。

「バスティーユを攻撃する?」
「明日、夜が開けたらすぐに。ベルナールがそう言っていました」
気づくと、アランの心配そうな顔があって、私の代わりにベルナールと会ってきて話を伝えてくれた。私はふと、冷たく冷えた自分の手のひらに、違和感を感じた。ここはもっと暖かかったはずなのに。さっきまで、暖かく小さな手を握っていたはずだった。あれは何だったのだろう。

「・・・まだ続くのか」
「隊長」
「どこまで続くんだ?このパリから一人残らず民衆がいなくなってしまうまでか?それとも軍が引くまでか。ますます泥沼にはまっていくだけだ」
私は高貴な人の顔を思い出していた。軍を引いて欲しいと言った私に向かって“それはできない”と答えたこの国の王妃。彼女が自分から譲歩することは無いだろう。
「おびただしい血を流して、血の河ができるまで。その先に何がある?」
「新しい国です。だれも飢えて死ぬことは無い、明日に希望のある国。違いますか」
「明日・・か」
明日もまた陽が昇る。今日と同じように。何も変わらない、ただ彼がいないだけ。彼と共に生きるはずだった、失われた未来。それなのに何故明日はくるのだろう。

「もう後戻りはできやしない。たとえ今戦いが終わっても、前より良くなる事は無い。進むしかないんだ」
アランの言葉は私にというより、自分に言い聞かせているようだった.
「夜明けまで、まだ長い。もう少し眠ってください」
「私は十分だよ、お前こそ休まないと」
「頼むから眠っていてください。でないと」
「でないと・・何?」
「・・・」
彼は目をそらしたまま、黙っている。私の様子に不安を感じているのだろう。
「私が行方をくらますとでも?」
「そうじゃなくて・・あんたが」
「大丈夫だよ、アラン・・大丈夫。いなくなったり、自分から死んだりもしないさ」
「隊長!」
「そんな事をしたら彼に怒られる。彼は私のために死んだのだから。あの時・・」

あの時--馬上で、一瞬眼を開けられなくなった。急激に咽が詰まって、縋るものを求めて手綱をひき絞った。私を呼ぶ声がして。眼を開けると・・・彼の体が跳ね上がっていた。
束の間、彼の眼は私を見ていた。だが視線はもっと遠くへ行っていた。それから・・それから・・身体がゆっくり・・・・・・落ちて。石畳の上に彼の腕が投げ出された。

胃の腑から何かがつきあげてくる。膝を屈して床に倒れこみ、嫌な味のする唾を咳とともに吐き出した。アランが私の背中をさすりながら、顔を覗き込んでいる。
「アンドレが、あいつが今の隊長を見たら、嘆きますよ」
「・・・どこかで嘆いているくらいなら、何故連れて行ってくれない?」
「そんなこと・・・言うもんじゃない」
アランの言葉には怒気が含まれていた。彼も苛立っている、この状況に、私の状態に、そして何より友人を失ったことに、苛立ち、悲しみ、やり場の無い感情の渦を抱えて。私だけではない。誰もが嘆いている。教会も広場も慟哭で満ちている。流された血と嘆きは何で贖われるのだろう。新しい国がきても・・・そこに愛する者はもういないのに。
いない・・いない。彼はいない。戻って・・こない。

「何故だ」
「・・隊長?」
「何故、彼でなくてはいけなかったんだ。私のはずだったのに・・。撃たれるのも、血を流して倒れるのも、私だったはずなのに。彼をパリに連れてこなければ、あの時、咳き込まなければ、彼が私のそばにいなければ・・」
掌に爪が食い込むほど拳を握り締めた。拳で床を何度も叩く。皮膚が破れて血が滲む。手が痺れる。滲んだ傷が痛い。でもまだ足りない。こんな痛みでは足らないんだ。彼が撃たれた苦しみに比べたら。この何倍も何十倍も苦しかったはずなのに。身体を貫かれて、血でふさがった喉から私の名を呼んで。私の名前など呼ばなくて良かった。私に触れなくても良かった。その力を残して入れば、助かったかもしれない。
「なんとしても、止めなければいけなかったんだ。私が彼を拘束して・・彼を愛して。いっそ出会わなかったら、そうしたらきっと・・彼はどこかで幸せに永らえることができたのに」

「いいかげんにしろ!!」
アランが弾かれたように立ち上がって、私を見下ろしていた。窓からこぼれる月光を背に受けて、その表情は見えないが、体が小刻みに震えている。
「見損なったよ。いいか、アンドレは幸福だった。隊長と出会って、愛しあって、これ以上ないくらい幸せだったんだ。俺は・・」
「それを否定することなんて許さないからな!あいつの存在も愛情も、否定する権利はあんたには無い、誰にも無い。忘れるんじゃないぞ、アンドレにとってあんたが必要だった。あんたにも・・・」
握り締めたアランの拳に、頬から零れ落ちるものがあった。
「・・・アラン、泣いているのか」
「・・ああ、隊長も・・・泣いた方がいいぜ」
アランの声は震えている。止め処もなく流れるものを拭おうとせず、彼はまだ私を見下ろしていた。
「隊長・・何故、泣かない」
泣く?それは何だっただろう―――。
「泣けない・・のか?」

私は自分の生まれた時を覚えている。そのことを今までは忘れていた、そして誰にも言ったことはなかった。生まれてすぐの赤ん坊が眼など見えるはずは無いのに、私は生まれた日の、空の色を覚えている。
私はこの世の中に生まれてきて、初めて光を見た。その空の色はあまりに眩しくて、私は生まれでたことの不安に泣き叫んだ。もう暗く暖かく秘密めいた、母の胎内に戻ることは無い・・そのことが怖かった。腹に力を入れ、手をばたつかせて、力の限り泣いた。
今の私は、あの時と同じように、不安で恐ろしくて、そして――たった一人だ。
ひとり、ひとり・・ひとり。
生まれ出た時は、まだ何も手にしていなかった。自分以外は。それから私は成長し、そしてかけがえの無いものを手に入れた。手に入れてから失うことのほうが、何も持たずに生まれてきた時よりも、何倍も恐ろしい。私はこの底なしの恐怖に一人で立ち向かわなくてはいけないのか。

赤ん坊のように泣きたかった。ただ泣く事だけですべてを表現していたあの頃のように。悲嘆と恐怖を涙で洗いたかった。でも何か・・私の中の別の私が、それを拒んでいる。私が涙と共に贖罪されることなど、あっていいのかと。
「アンドレは幸福だった。それだけは・・忘れないでくれ」
アランが搾り出すように言った言葉。私はそれを信じて良いのだろうか・・。

「班長、アラン班長。隊長がどこにもいません」
「なんだと・・あの、馬鹿」
アランは立ち上がって、走り出した。暗い予感に胸がざわめき、じっとしていられなかった。満月が、走る彼の背中を白く染めていた。

胡蝶の夢だ・・まだ夢の続きにいる。お前がそばにいて、失われた未来に立っている。それなのに私のいる場所は、とても暗い。お前の顔すら見えない。私は今・・何処にいる?

目を覚ます。もう、何度目だろう。夢と現実の間を行き来するのは。いや、どちらが私のいる世界なのか、もう分らなくなってきた。自分が今いる場所すら分らない、細く暗い路地の間のようだが、いつの間にこんなところまできてしまったのだろう。
その暗い空間のなかに、白い光が届いている。見上げると、月が中空にあって夜の底を照らしていた。私は月の光を全身に浴びながら、ただ空を見つめていた。

いつか、こんな風に月を見上げていたことがあった。バルコンに立つと、目に映るすべてが白と黒に染まり、世界は色彩にあふれた昼とは全く異なる貌を見せている。そして、私の傍らに彼がいた。わたしたちは何か話していた。

私は立ち上がって月に手を伸ばした。あの時の彼のように。彼が話していたのは・・ああ、そうだ。彼が母を失い、ヴェルサイユに向かう前の晩のこと。その晩も望月が、彼の母の墓を白く照らしていたこと。その母を置いて、遠くに行かねばならない。それが彼を苛んでいた事。でもこの屋敷の上にも、月があった。母の上にも変わらず照らしている月が。自分の代わりに、月が母に寄り添っていてくれる。幼い彼はそう感じたということを。
「母を亡くして、まるで世界が空っぽになったようだった。色も音もなくなってしまったようで。その時はもう二度と、世界が元に戻らない気がしたよ。愛せるものに出会えるとは思えなかった・・ここに来て、階段の上に立つ天使に会うまでは」
月は今日も天空にあって、暗い地上を照らしている。彼が母を亡くした時も、私と出会った頃も、そして今も。
「オスカル、お前と出会えたことが、俺にとって最大の祝福だよ」

彼はそう言っていた。

私は白い光に照らされた、自分の手を見下ろした。色を失って浮かび上がる掌には、点々と赤い染みがついている。その血の跡の上に、涙が零れ落ちて洗い流していく。あとからあとから止めどなく落ちるものを、呆然と見ていた。
掌の上に海が広がり、そのくらい海面を、ただ月だけが照らしている。闇に閉ざされた世界のなかで、月光だけが、白く浮かび上がる。
「アンドレ―――」

私は手の中の月を見つめる。
「アンドレ・・アンドレ」
何度も彼の名を繰り返した。まるでそれしか言葉を知らない赤ん坊のように。見失った母を呼ぶ子供のように。名前は繰り返すごとに、呪文となって凍った心を解放していく。
――――お前と出会ったことが
私は膝をついて、月を仰いだ。喉から振り絞るように洩れてくる、嗚咽を止めることが出来ない。
――――俺の人生に与えられた、最大の祝福だった
静謐な月の光は闇の底まで届く。涙が枯れる事を知らないかのように流れ出る。いつまでも、止むことなく・・。
――――愛しているよ
私はそのまま、月とともにその夜を明かした。
その月光の下で、生まれた時のことを、彼と出会った時のことを、共にすごした長い時間のことを・・考えていた。彼は幸福で、そして私も、彼がそばにいる限り幸福だった。そのことを思い出して、私はようやく彼を取り戻すことが出来た――私と共にあった彼自身を。
――――私もお前を愛している。これからも・・ずっと

やがて、月が東の空に傾き、空が朱から紫紺へと変わっていく。夏の日の朝があけようとしていた。陽が高くなるにつれ、人々は集まってきて、ある方向へと進んでいく。明日へ続くために、進まなければいけない道。それが正しいかどうかは誰も知らない。

「隊長。さあ、行くぜ。皆待ってる」
路地の先の明るい場所に、黒髪の男が立って私に話し掛けている。その彼の影に、もう一人立っていた。懐かしく愛しい顔がそこにあって、私の背中を押している。
私は立ちあがった。夏の一日が始まる。長い一日。おそらくは、私にとって生涯で一番暑い日が。

END