世界が明日終わるとしてもー11

割れた扉が軋んでいる。外の木々が風に唸っている音もする。しかしそこに立った人影は声も音も立てない。

吹き荒れている風の只中でオスカルは立ち尽くしていた。外から中に吹き込む風に髪が煽られ、肩に羽織っていたローブが滑り落ちる。夫人は思わず娘に近づこうとして、足が止まった。
娘はゆっくりと、木でできた人形が動くかのようにぎこちなく右手を上げ、俯いてその手をじっと見ている。それから、堅くこわばった指が徐々に曲げられ拳になる。唇が開いた、しかしそこから声は出なかった、叫びも。
声の出ない喉を掻き切るようにして、胸を拳で抑えそのまま膝から崩れ落ちた。夫人が娘に駆け寄り、名前を呼ぶ声が風にかき消される。

アンドレはふと顔を上げた。道の角に辻馬車に繋がれた馬が所在無げに首を垂れ、小さく嘶いている。彼は自分が世話していた馬のことを思い出した。彼女の馬は気難しい・・彼の馬は大人しかったが世話をする人間を見極めているようなところがあった。無事で、元気にしているだろうか。軍を取り巻く状況は厳しくなりこそすれ緩まりはしない。彼女の馬も疲れが出るだろう、もちろん彼女にも・・。彼は頭を振った。逃げて捨ててきたはずのものに、心が繋ぎ止められている。

夫人はまんじりともせず、娘の寝台のかたわらに座っていた。夫たる将軍は軍から呼び出され帰ってこない。三部会開催に伴う警備だけでなく、頻発する群衆の不穏な動きに対応を迫られているのは判っていた。しかし夫人はただ娘のことだけを案じ十字架を握りしめながら祈っていた。もはや祈る以外できることはなかったから。

――レヴィヨンの工場が襲われた。工場主は首を切られた
――なんて恐ろしいこと
――貴族の屋敷に投石が
――もしかしてこのお屋敷にも

従僕や侍女たちがさざめきあっていることも夫人の耳には入らなかった。オスカルを診察した医師が重苦しい表情をしているのも。
長い疲れと不安から夫人は椅子の上でしばし眠っていた。夜半、窓を木の枝が叩くかすかな音に浅い眠りから目覚めると、寝台の上の娘が目を開けていた。
夫人は驚いて立ち上がり、そして硬直した。娘は瞬きすらしない。胸も動いているか判らない。震える手を差し伸べようとした時、娘が口を開いた。表情は変えぬまま。
「ひとりに・・していただけませんか」
抑揚のない声で口にされた願いに、ジャルジェ夫人はそっと娘の上に屈みこみこんだ。手を握って“自分を責めてはいけません”とだけ耳元で囁き、目を伏せたまま部屋を辞した。

静かに扉が閉められた後も、オスカルは宙を見つめていた。もう物音一つしない。蝋燭の灯りは少なく、揺れる天井だけ見ていると、この世界にいるのが自分ただ一人のように思えた。自分の右手に何か違和感があった。顔の前まで持ち上げてみる。揺らぐ灯りの中で細い手首に規則正しく脈が打っているのが見てとれた。
“赤ん坊は、目が見えるようになると自分の手をじっと見ているのよ。手が動くのが、不思議なのでしょうね”昔、姉の子供達をあやしながら母が言っていた言葉が思い起こされる。

動く手、生きている手、脈打つ命。だがそれは失われた。二度と戻らない。死んでしまったのだ、ひとりの子どもが。確かにいたのに、この身体の中に。もう決して・・戻らない。戻らない戻らない戻らない――――

「う・・」
横たわったままの背中が反り返って、息は深く吸い込まれたまま肺で止まった。
「くぁ・・・ぁ」
喉から出たのはそんな音だった。目は大きく開かれ、指が引きつったように鉤型に曲がって固まっている。
ああああ・・あぁっぁ――――――――
悲鳴が迸った。だが、声にはならなかった。慟哭があまりに激しかったため、喉が凍って音にはならなかった。毒が廻ったかのように寝台の上で身体が跳ね返り、息のできない苦しさから両手が夜着をかきむしって引き裂いた。天蓋から吊るされた帳を、溺れる者のように掴んだが、それも助けにならず布が音を立てて破れていく。のたうってバランスを崩した身体が、床に投げ出された。
打ち付けられた痛みで一瞬我にかえる。止まっていた呼吸が戻ってきたが、息は速く浅く、肺の奥までは届かなかった。頭の中ががんがんと響いて、手足の先が冷たくなってくる。

沼の底だ。深くて・・・冷たい。水の重さが苦しい。ここは覚えている。希望もなく、力も失った者が沈む場所。真っ暗で、光も・・届かない。静かだ、誰もいない・・・・いや?

気がつくとあたりは闇だった。目は開いているはずなのに何も見えない。音もしない。立っているのか横たわっているのかすら判らない。ふと、足が濡れていることに気づいた。足元に目を落とすと、水の中に足先をつけて立っている。揺れる水面に自分の姿が映っていた。

 

 

―――貴方でしたか
水面の影は揺らめき、目の前に屹立した。鏡像のようにそっくりな自分がもうひとり。

―――ようこそ、僕の世界へ
――ああ、貴方だったのか・・ここにいたのは
――――待っていたよ

私が生まれてからずっと、胎内で育んできたもの。生まれることのなかった子ども。それは貴方だった。私は貴方とともに成長し、私は貴方を育てた。貴方は私を告発する者。罪の断罪者。貴方こそは――――

 

 

私の兄、そして私の息子。それが貴方だ。
私は生まれなかった子どもをずっと抱えてきたんだ。

 

 

――――待っていた でもこうやって会ってしまったときが終わりなんだ
私たちはこれまでひとつだった。しかし今、分かたれてしまった。もう私は貴方を育むことができない。貴方は闇に消えてしまう。
――――僕はもう此処にいてはいけない さようなら 会いたかった・・会えてよかった
行かないでくれ・・逝かないで。私の半身、私の背骨。貴方を失って私はどうして生きていけばいいのか。
―――君の行くべき道はある すぐ其処にあるんだ 見つけ・・・て
待って、消えないで!

膚が裂けて、ばらばらになる。もう一度帰ってきて、私の中に。散り散りになり、崩れていく。貴方がいなくては、私は立っていることができない。

足が冷たい・・凍ったように。手も動かない、声も出ない、耳はつぶれたようだ。ここは寒い。

私はひとり残された。貴方は消えてしまった。立ち尽くしていればやがて私も消えるのだろうか。消えてしまえば、また貴方とひとつ身に戻れるだろうか。ひとりは・・・あまりに・・・

寒く・・・・・・・つらい

 

 

――・・カル

―――オスカル

遠くに声が聴こえる。

――何処にいるの?出ておいでよ。

懐かしい声

――こんな掻き傷つけて。薔薇の茂みになんか隠れちゃだめだ。
お前は何処にいてもすぐ見つけるから。
――僕が見つけられないからって、薔薇の中は駄目だよ。大好きなオスカルが傷つくのは嫌なんだ。
分かった、もう薔薇の茂みには隠れない。お前が泣くならやめる。ごめん、もうしないよ。私もお前のことが好きだから。
―――ありがとう

そうだ、薔薇の咲く庭で私はそう答えたんだ。思い出した、全部。

私達はお互いしかいなかった。数えきれないほど一緒に過ごした時間、仲直りするための喧嘩、大人の知らない秘密の場所、ふたりだけの言葉、愛馬が死んだときに厩舎の隅で流した涙、小川まで競走したこと、どこまで高く登れるか試した木の上で夕陽を見た、朱に染まる空が美しかった。二人だけの歴史と信頼、ほかの誰にも代われることのない・・・。

――彼に会わなくては
私達が辿ってきた道。ずっと続いていた、これからも続くと思っていた。
――彼を探して、言わなくてはならない。ただ、ひとこと。
道が途切れても、私のある世界が明日無くなるとしても、彼に。
―――伝えたい、言いたい。

ツタエナクテハ イケナインダ タッタ ヒトコト

 

 

 

 

――すまない、と

 

 

 

完結編前編 完

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