片隅

夏が終わりかけている

静かだ。いつもなら慌しいはずの、夕方へと向かうこの時刻。奇妙なほど静かだった。俺の肩に頭を持たせかけたお前の息遣いが聴こえる。眠っているのに指先が微かに動く。寝顔を見つめるのをやめ、目をそらした。

触れたい
見つめていると気持ちが溢れそうになる。部屋の中は時が止まったようで、黒く重たげな執務机の上のインク壜に午後の陽光が反射していた。西向きの窓からさす木漏れ日が部屋を揺らしている。木々の緑の深さに、夏が終わりかけていることに気づく。前にこの窓から見た緑はまだ若かったはずなのに・・・

小さな声を出してお前が身じろぎする。故意に外に向けていた意識が部屋の中へ戻る。俺はため息をついた。無駄なことだ。伝わるお前の体温、鼓動、香り。逃れることなどできはしないのに、幾度も逃げようと思った。報われない為ではなく、お前を傷つけることが怖かったから。お前はあれからもずっと変わらずにいてくれるけれど、俺は此処にいる資格があるだろうか。

今でもお前に触れたいと思う。髪に指を絡ませ、頬を捕らえて、瞼に口づけしたい。腕のなかに絡めとって離さずにいたい。胸に顔を埋め何度も名前を、愛の言葉と共に。愛されたい、愛し返されたい。想うほどに想われたい。ただそれだけなんだ、だから

だから?
そうしてまたお前を傷つけるのか。信頼を裏切って、二度と埋まらない溝を作って。知らず、彼女の髪に触れようとしていた右手を押さえ、天井を仰いだ。触れないでいい、愛し返されなくても。お前の傍にいられる。多分、俺の眼が見えている間は。

天上の隅から少しづつ、光が弱くなっていく。眠っているはずのお前が俺の名前を呼んだ。目覚めたお前は同じ姿勢のまま、夢の続きのように一言だけ呟いた。

---私は何処へも行かない

再び目を閉じたお前の重さを肩に感じたまま、暗くなっていく部屋を眺めていた。

陽が傾き夜が来るように、砂時計の砂が落ちるように、いつか終わりが来るかもしれない。でもいまはこのままでいたい。やがて誰か扉をノックして静寂は終わるだろう。それまでは、傍にいられる間は・・・

こうして午後の片隅で二人きりでいよう
明日のことは思い煩わず
いま この時だけは