解放の妙薬ーホセの物語

空気がひどく澱んでいた。月は出ていない。厚い雲に覆われ、清冽な光を地上に落とすことは無かった。彼が足を進めるたびに石畳に響く音も、どこか歪んでいた。暗い夜空も見えないほど入り組んだ路地の果てに、その店はあった。夜の闇よりいっそう黒い扉。うっかりすれば見過ごしてしまいそうな。彼は扉に手を伸ばし、一瞬ためらった。
―――引き返すか?
だがその迷いはすぐに過ぎ去って、彼は扉を押した。
「誰か、いないのか」
部屋の中は真の闇。すると片隅で小さく蝋燭の灯りがともった。
「こんばんは、旦那。いい晩だね」
彼は眼を細め、闇の中から浮かび上がった背中の丸い男の姿を認めた。

「苦しまないよ」
暗がりに低い男の声が沸きあがる。
「ちょっと口から血が出るかもしれない。それも少しだけだ。ちょっとの間、胸を押えて。せいぜい数分。当人にゃ、とんでもなく長いだろうがね。でも苦しまない。顔も綺麗なまんまだ」
「使ったことがあるような口ぶりだな」
黒ずんだ男の顔が歪み、喉の奥でくくっと笑った。

「旦那はどうなんだい?誰に使うんだよ。自分じゃねぇよな。女だろう。惚れた女。ああ本当に女は残酷なもんだ。綺麗な顔して、そ知らぬ顔で、さっさと他の男に行っちまうんだ」
彼は何も答えない。男は彼の顔をうかがったまま、きしむ椅子に座った
「・・・・・ある女の話をしようか。よくあることで、退屈かもしれんがね」

「その女は、始めて会ったとき、階段の上から俺を見下ろしていた。青い眼が俺の心臓を掴んで抉り出した。俺は馬鹿みたいに口を開けて見上げてたんだ。そしたら女が口を開いて。鈴が鳴るような声だった。“名前は?”そう言ったんだよ。それから俺は・・女無しでいられなくなった」
「あの女が俺を見ている間はよかった。夜も昼も一緒で、他には何もいらなかった。今でも思い出せるよ、金髪が寝台の上でさらさら鳴って。安物のシーツの上で、あいつが青い眼で俺を見上げていた。今でも・・・今でも・・この手に」
男は夢見るように眼を細め、前に誰かがいるかのように、そっと腕を廻した。
「でもそんな日は長く続かない。女がもっと心奪われる男が現れた。その男も俺と同じような眼をしていて。俺は怒った。あいつを部屋の中に引きずりいれて、もう一度俺を見てくれるよう懇願した」

「愛してる・・愛してる。俺が世界中の誰より一番お前を愛してる。だから行かないでくれ、俺の元にとどまってくれ。他の男のところになど行かせない」
行かないでくれ。離れては生きていく意味などない。世界の全てを与えられても、お前一人のほうが重い。俺を受け入れなくてもいい、愛さなくてもいいから―――離れていかないでくれ。

「でも、結局女は・・・出ていった」
沈黙がおりた。彼は、今目の前にいる男が、ゆら、と揺れて闇に溶けていきそうに感じた。

「忘れちまえればそれが一番だ。あんな女、どれほどのもんだって言うんだ。街を見てみろ、気の良いブルネットが沢山いる。笑って誘って酒を飲めば、その日のうちに。そんな女は沢山いるんだ。忘れちまえ、どうせ他の男のものなんだ。女なんてあいつだけじゃない・・・・・そう思ったよ。何べんも」
そうだ。忘れられるなら、逃げ出せるなら、とっくにそうしていた。こんな風に追い詰められる前に幾らでも機会はあった。出来なかっただけだ。
「でもな、其処にいるんだ。とうに出てったはずの女がよ。部屋に帰るとあいつの匂いがする。ブルネットの安香水に紛れてても、俺にはそれがわかる。足元には金髪が一本落ちてる。俺はかがんで、それを拾い上げて、つくづく眺める。ああこれは、あいつの項だ。あいつの金髪はいつもさらさら鳴っていたっけな。そう思い出す」
気まぐれな風に吹かれて、彼女の金髪が舞い上がる。光が水滴のように髪に煌めいて、香りが彼のもとまで届いてくる。彼は胸を切り裂かれながら、息をとめたまま目を逸らすことが出来ない。

「忘れろ・・忘れろ・・頭の中で何べんも繰り返したんだよ。どうせあいつは今頃、あの男の腕の中だ。他の男の胸で、あいつはどんな顔をしているんだろう。あの青い青い瞳で、睫毛を揺らしながら男を見上げているんだろうか。眉をひそめて、切ない声を上げているんだろうか」
あの男の腕の中に彼女がいる。白い横顔が男の胸におさまっていて。男の指が顎にかかって顔を上向かせ、唇が近づく。“愛しています・・美しい方”そして唇が触れ合い。
その光景を思い出すと、彼の中に黒いものが湧き上がる。

「俺は寝台の、ブルネットが寝ていたシーツを引き裂く。枕を天井にほおり投げて、酒の壜を床で叩き割る。違う、違う!俺が欲しいのは。欲しいのはあの女だけだ。見ていると胸が苦しくなって吸い込まれる青い眼の。さらさら鳴る金髪の・・女だけだ。他には何もいらない。俺自身すら要らない。欲しいのはあいつだけ。それが手に入るなら、戻ってくるなら―――何だろうと惜しくない!」
死によってしか結ばれない。死によってさえ結ばれない。永遠に手が届かない・・女。

「俺はあいつに言った。“最後のキスをしてくれないか”唇が触れて、舌が絡まった。この薬には味が無いんだよ。あいつはワインだと思っただろう。俺の口から移された赤い液体が何なのか、気づかずに逝った。微笑んだまま」

部屋の空気は重く黴臭かった。蝋燭の灯りはとうに消えて男の姿も沈んでいく。
「ならば何故・・お前が生きている?」
「・・・・」
「この薬は、ほんの少しでも・・舌先で舐めただけでも、それで終わりなんだろう」
「・・・・・・・」
「生きてる・・・のか?」
―――それとも死人か。

しばらく、沈黙が支配したままだった。大気は腐臭を閉じ込めたまま固まっている。
「・・・・・なあ、教えてくれよ」
「何を」
「旦那なら知ってるだろ。何で俺はあの女に出会ったんだ。世の中には、あんな女に出会わずに、酒を飲んで、気の良い女と寝て、太った女房にこき使われながら一生終えるやつも大勢いるんだ。それなのに、なんで俺は」

男はもう彼を見ず、顔の前に差し出した自分の両手を奇妙な眼で眺め、ここには無い何かを追っていた。
「あの女に出会わなければ、俺は男達に薬を売るようなことにはならなかった。ただ出会って声を聞いただけで、俺はこんなところにいる羽目になったのさ」
彼はここへ、あるものを手に入れるためにきた。自分と彼女の、この先にあるべき道を閉ざすための薬。苦しまずに死にいたる妙薬を、この黴臭い、床に鼠の這う部屋へ。女に捕われた男だけが入れる店へ。

男は緩々と手を下ろし、俯いたまま深い溜息をついた。茶色く皺のよったその手の前のテーブルには、親指ほどの小さな灰色の壜。
「買うかね?」
「・・・・・・」
「この薬には、名前がついてる。俺がつけたんじゃないが」
「何という名だ」
「“解放”っていうんだよ。誰がつけたか今はもうわからん」

解放?解放なのか、これは。何からの。生まれたこと、出会ったこと、共にあった時間、共有した感情。笑い、諍い、語り合った。その全てが今、この壜の中に凝縮されていた。これまでの時間。これからの時間。どうするか選ぼうとして、生を右手に死は左手において重さを量っている。どうする、どうしたい。この壜を手に取るのか、今すぐ踵を返して振り返らずに出ていくか。どちらを・・・。

「ひとつ、聞いても?」
「何だね、旦那」
「お前は・・・女を・・手に入れたのか」

突然、男の口が裂けた。いや、笑っていたのだ。洞窟の中で鐘を打ち鳴らしたかのように、哄笑は部屋中に響き渡り、他には何の音も聞こえなくなった。
「あぁはははっ・・・はぁ・・・可笑しいや。大笑いだ。旦那もよくもまあそんなことを」
男の声と共に、歪んだ笑い顔も部屋中に広がっていた。
「そんなこと、聞かなくともとうに判っているだろうにさ。俺に聞くとはね」
下卑た笑いは次第に小さくなっていったが、彼は凍りついて動けなかった。

「誰かを完全に手に入れられることなど、無いんだよ。無理だ。死ぬほど愛してても、その女のために永久に抜け出せない地獄に落ちても。誰かを・・手に入れることなんてできない」
判っていた。自分は未来永劫彼女を手に入れることはない。生死どちらを選んだとしても、道が分かたれることに変わりは無い。それでも。
「さて、どうする。俺はどっちでもかまわないぜ。旦那が駄目なら次の客に売るまでだ。こうして待っていればまた客が来るんだよ。女に骨まで喰われた、俺と同じような男がな」
彼は息をひとつ吸い込んだ。
「どっちにする?買うかね。このまま帰るかね」

外に出ると、音も無く背後の扉が閉まる。振り返れば黒い扉は何も語ろうとしなかった。彼は左胸に手を当て、服の下に小さな壜があることを確かめた。その量で十分なはずだった。彼と---彼女が解放されるには。
彼は歩き出す。愛しい、かけがえの無い、離れえない女の面影を心臓に抱きながら。

END