月夜の薔薇

日が落ちたころ急に雨が降りだしたのが、夜半になると夕方の叩きつける雨は幻だったかのように雲が切れた。湿気はそこここに残っていて、暑さにうなだれていた遅咲きの薔薇も生き返っている。

――残った雨露の重さに耐えかねて花びらが落ちた?
二階にある寝室のこの窓からでは、覚束ない月明かりで庭の細部まで見えるはずはない。もとより花弁の落ちる音が聞こえるわけでもない。そんな気配を感じたように思っただけだ。窓の下にある白い薔薇は、数本だけ咲き残っていた。庭にはさまざまな種類の花があるが、ことのほか薔薇が多い。なかでも二階の部屋の主が一番好んだ花は、いつでも眺められるよう窓のすぐ下に植えられた。彼女はよく、抱えきれない想いを紛らわせるために、慰みに花の数を数えたりもしたものだ。それを知っているのは常に横にいた彼だけ。そうやって見つめていただけの長い時間が終わった今は、彼が花の数を数えている。残り少ない名残の薔薇。

ふと今度は室内に気配を感じた。彼女が目覚めたらしい。シーツの衣擦れの音。かすかにきしむ寝台の音。ぼんやりとしたまま目覚めて横にいたはずの彼の存在を探し、いないことに気づいて身体を起こす。湿気に汗ばんだ額に髪が張りついている。裸の右手でかきあげると、髪が一本、音もなくシーツの上に落ちた。窓のそばにいる彼を見つけて、其処にいたのかという風に笑みを向ける。名前は呼ばないまま、彼に向かって手を伸ばす。

勿論彼には見えない。彼にわかったのは呼吸のかすかな音、部屋の空気の動く気配。シーツに落ちた髪も微笑みも、すべて彼の胸の中にある光景だ。
彼は静かに窓辺の椅子から立ち上がり、寝台で待っているはずの恋人の元へと向かう。いつもの歩幅でちょうど五歩。何気なく寝台の端に手を下ろし、その位置を確かめて座り、確かに微笑んで彼を待っていた恋人を抱く。見えずとも分かっている、彼女の表情、彼女の望むもの。

奇妙なことだが、見えなくなってから瞼の裏に映る光景が以前と変わった。手のひらで包んだ乳房の硬さ、耳元から立ち上る香り、汗ばんだ膚の湿り気。感じられるもの把握できるものが一体となって、彼の脳裏にはっきりと浮かび上がってくるようになった。たとえば今、眉根を寄せている彼女の表情だけでなく、汗が流れる背中のくぼみや、彼らの頭上にあるはずの天井の飾り彫りまで。全てが一時にパノラマのように見えるのだった。彼女の首筋に唇を這わせながら、庭の薔薇の花弁がまた落ちたことが分かる。彼女に触れ、抱き合っているとき、彼の目の裏にはその瞬間瞬間に存在するものが全部見えた。彼らだけが世界の中心にいて不動で、周囲は闇の中にさまざまな光の点を残しながら現れては消えていく。神のいる遥かな空の高みも業火燃える煉獄の影も見えた。湿って紅くなった彼女の唇、半ば伏せられたまつげに縁取られた青い瞳、その彼女が見つめる自身の隻眼の虹彩すら分かるのだった。身体の裏側も、身体の外側にあるものすべても―――

たぶんそれはただの幻影なのだと思う。微かな影しか見えなくなった目を補うために、自分自身に見せている幻。それでもこの瞬間は夢ではない。彼女は確かにここにいて、強く抱き合った腕と身体から熱が伝わってくる。目の裏の光景が幻でも、朝になれば戦場が待っているとしても、この熱だけは揺るぎない確かなものだった。

彼らは同じ夢を見ながら再び眠りに落ちる。夢の中の彼らは肩を寄せ、穏やかに波の打ち返す浜辺を歩いている。夢は鮮やかな色彩で希望をつむぐ。

叶うことなら―――彼らの夢が真になるように。

 

END