満開の下

「なぜだかあの花に近づく気になれない」
馬の手綱をひき、オスカルは来た道を戻ろうとしていた。

長い休暇に逗留している別荘近く。馬を走らせるには恰好の丘がある。その樹は丘から続く低い森の木立の入り口にあるのだ。春の数日間だけ、周囲を圧倒するような薄紅の花を爛漫と咲かせる巨木だ。太い幹は根元から三方に分かれ、重たげな幹を覆いつくすほどに花が咲き誇る。

幼いときから何度か、花の時期に来たことはあるが、彼女は決して樹に近づこうとしないのだった。彼が近寄ろうとすると止めたこともある。離れていても思わず足を止め、見とれてしまう光景だった。風がこちらに吹くと微かに甘い香りもする。
--どうして避けるのだろう
アンドレは不審に思うこともあったが、とりたてて問うほどのものでもない。
今日も森に入ることもなく、軽く汗ばんだ体を風にあてながら慣れた丘の道を屋敷へと戻っていく。

その日の夜は風があった。嵐というほどではないが窓は揺れている。
--この風で散ってしまうな
晩餐の後彼女の部屋でグラスを傾けながらぼんやりと彼は考えていた。
いつだったか思いがけない突風に散る様を見たことがある。枝は上下にしなり揺れ、花弁が吹雪のようにあたりに舞った。オスカルも彼も、身動きもせず声も立てず、風がおさまるまで微動だにしなかった。風がやんでも暫らく名残のように花びらが落ちる。
オスカルはそのまま黙って踵をかえし、馬の腹を蹴って駆け出した。慌てて彼も後を追う。
「・・恐ろしい」
走りながら彼女が言った。アンドレはあの絢爛として咲く花の何が彼女を怯えさせているのか分からなかった。振り返ってももう花は見えない。

「今日は少し疲れたな。。明日は遠出はやめておく。お前もたまには自由にするといい」
そう言う彼女の横顔は心なしか青い。数日春にしては風が冷たかったのでそのためかと思い、彼はうなずいた。休暇はあとしばらく。ベルサイユでの多忙な日を思えば、無理をしないのに越したことはないだろう。

翌朝、雲はうっすらと霞んだように浮かんでいるだけだ。アンドレが窓を開けると陽光が射し、花を食み飛び回る鳥の声が心地いい。暖かい一日になりそうだった。昼過ぎまでこまごまとした仕事を終えると、時間が空いた。
「出かけようか」とひとりごちた。午後の春の光の誘惑は強い。彼は馬を出し、何処へとあてもなく走らせた。向かおうと思ったわけではなかったが、結局はいつもの丘をあの森の前まで来ていた。
まだ花は満開だ。夜の風で散ったとしても、幾千の花が全て落ちきるはずはない。彼は馬を下りて低木に手綱を結んだ。馬の首をなでてから振り返り。ゆっくりと樹に近づいていく。

森の入り口の木々は比較的低い。あの花の樹もさほど高いわけではなかった。樹齢がどれほどかは見当もつかないが、太い幹がある程度の高さから横に伸び、今は花の重さ自体で枝が垂れている。ほのかに甘い香りがする。散った花びらの上を歩くとさくさくと軽い、雪を踏むような音がした。
彼は樹の真下に立ち、見上げた。

静かだった。さっきまでにぎやかだった鳥の声もしない。その影も見えなかった。
花は動かない。彼も動かない。そこへ風が吹いた。花が散った。一面に。薄紅に。見上げたまま動けない。目も閉じられない。ざわざわと枝が鳴り、彼は花弁に囲まれる。花は彼に纏いつき、息を止めさせ体を縛り付けた。いつの間にか幹に体が押し付けられ、ごうごうと鳴る強い風に容赦なく紅が彼を覆いつくしていく。頭上からも地上からも舞う風に一面の花。
動けず息もできず幹に括り付けられ彼はもがいた。
---逃げられない?

足元からざわざわと何かが這い上がってくる。若い枝が足先から絡んでくるのだ。指が幹の節にめりこむ。髪が枝に絡まる。音が聞こえてきた。水が滝つぼに落ちるようなごうごうとした音。幹の中の樹液が駆け巡る音だ。彼は樹の中にいた。中にいて折れんばかりに揺れる枝と、その向こうの抜けるような青空と、空高く通り過ぎる鳥を、見ていた。此処に立ち、鳥と風が花を散らし、地上の花弁が土に埋もれ、若葉が芽生え萌え、夏の日差しに照り映え、やがて葉が色を変えてまた散り落ち。枯れ果てたような幹の中ではじっと、次の花へと続く色が作られていた。幹を折れば、血の変わりに薄紅色の樹木が滴ったことだろう。その営みを何年・・何百年。ただ続けていた。ただ立っていた。絢爛として咲く数日間のためだけに。

その思考することのない一本の樹になったその底で、欠片だけ残った彼の意識があがいた。必死に叫んだ。誰か・・誰でもいい、ここから出してくれ。逃げ出させてくれ。動けないんだ、今動かなければもう・・・・。
ざあっと、もう一度風がうねった。彼の意識が霞んでいった、その寸前。
--アンドレ!
遠く微かに人の声がした。

「アンドレ・・アンドレ、どうした?!」
眼を開ければそこはまた一面の花。だが目前には彼女がいた。彼の肩を揺らし覗き込んでいる。
「気を失っていたのか。どうしてこんなところで・・驚いたぞ、まるで・・」
彼女はそれ以上何も言わなかったが、彼が上半身を起こし首を振ると、ほっとしたように腕の力を抜いた。
「もう夕暮れになる。身体がすっかり冷えているじゃないか。すぐに帰ろう」
促されて彼も立ち上がったが、身体が揺れた。深く息を吐いて幹に寄りかかろうとして、慌てて身体を離した。だがもう何もない。花弁がゆらゆらと落ちているだけだ。

「なんだかここにいるような気がしたんだ。風だけあまりに強くて木々がざわついていたから・・だから」
先に馬を進めていた彼女が振り返る。
「呼ばれなければ来たくなかった。花は・・恐ろしいだろう」
「・・・ああ」
彼はそう答えるのが精一杯だった。後ろを振り返りたくはない。振り返ればきっと・・。

春の空は青から次第に紫がかり、陽が傾いていく。彼らは並んで丘を降りていった。夕闇の中に薄明るく浮かび上がる花を残して。

 

END