この恋には鍵が

―――この恋には鍵がかかっている。

始まりはいつも、羽根が触れるほどに微かなキス。束の間触れてすぐに離れる。お互いの腕の中の体温を確かめて、それから。ようやく深く口づけする。熱が混ざり合う。指が背中の線を辿る。絹地の上を彷徨っていた指は、やがて細い喉で、脈打つ鼓動を確かめるかのように止まった。掌で髪をすくい上げると、香りがあたりに匂いたつ。彼女の指も彼の黒髪に絡められていた。せわしなく動く手、密着した身体、湿りだす皮膚、熱い息遣い、絹ずれの音。
何も見えない、聞こえない。感じているのは互いの熱だけだった。

ふいに、扉の向こうで小さな音がする。風が運んだ音か。廻した腕に瞬時に緊張が走り、目は向けなくとも、神経が黒い扉のその向こうを透かして見ようと尖っている。しばし沈黙がおりた。

「・・・・・・・アンドレ」
呼ばれて、彼はオスカルに目を戻した。彼女もそれ以上何も言わず、髪に絡めた指に力を込める。連れ戻して、引き戻して。外の音に脅かされないように。
彼女の身体が浮いて、柔らかな羽の上に静かに横たえられる。唇が降ってくる。身体が重なる。熱が再び高くなる。

扉の鍵はかかっていなかった。

――――――だが、この恋には鍵がかかっている

夏が近づき、次第に空気と緑が濃さをましていく。軍服の下にはじっとりとした湿気。息苦しさに、襟元を緩めてみる。その指の動きが唐突に止まった。彼女の記憶の中から、彼の指先が辿った時の感覚が蘇ってくる。 硬く目をつぶり、深く息を吸い、早くなる血の流れを無理に押し留めた。鍵をかけなくては。幾重にも。知られることの無いように。今にも叫びだしそうなこの声が、決して喉を破ることの無いように。
顔をあげると彼がいた。片方だけの眼に限りない慈愛を込めて。瞬きもできずその隻眼を見返す。押し込めたはずの声が今にも溢れ出そうだった。重くかけた筈の鍵は、音を立ててはじけ・・・

扉を叩く音が響く。その音に呪縛が解けた。振り返る瞬間には、軍人という公の仮面に戻っていた。

――――――――鍵は、あまりに容易くその役目を放棄する

始まったばかりの恋は、熱で互いを焼き尽くすことも容易だ。隠し、押し留め、蓋をしても。火山が地表を破り、木々を焼き払い、全てを焦土と変えるように、熱は止めることができない。だが彼女はそれを知らず、皮膚の表面を焦がしていくものを制御することができると思っていた。

だがどれだけ蓋をし、鍵をかけ、軍人の顔の下に脆い心を隠しても、指先から熱が零れゆく。執務室の机の上に置かれた自分の掌にふと眼が止まる。男にはありえない細い指。円錐形の爪先。彼が口に含むと、赤く染まっていく。傍に彼がいない時でも、その記憶だけは確かで。眼ではなく全身が、今、傍にいないだけの、彼の姿を求めて彷徨いだしていくようだ。何処にいるのだろう。そう思ってしまう自らの心の内を止められなかった。
・・・今、何処にいる、何処を歩いている、それとも立ち止まっている。姿が見たい、お前に会いたい。魂が身体と分かれて飛んでいく。お前を求めて・・・・。

――――鍵など、熱の前には焼けた砂の上の氷と同じ。見る間に解けて、跡形も無い。

怒号、乱れる人の足音、悲鳴、硝子の砕ける音。怒りの爆発は日を追うごとに増えていく。軍の威容と武器を持ってしても人々の怒りを完全に静めることはできない。むしろ、押さえこまれただけ、暗いエネルギーが蓄積されていく。
暴動を沈静した帰り、石畳に色とりどりのガラスが散らばっているのに気づいた。見上げると、小さな教会の、窓から割れて落ちたものだと知れた。神父が跪いて、路上の欠片をひとつひとつ拾い集めている。オスカルは馬から降りて、俯いたままの彼に近づいた。
教会を中心とした小さな広場の、其処ここが荒れ果てていた。商店の扉は破られ、略奪されたものの残骸が点々と残っている。店主は罵りの言葉を叫び、片足を引きずった犬が広場の片隅を通り過ぎる。そんな光景に背を向けて、神父は背中を丸めたまま、壊れ失われた物の欠片を拾い集めていた。

今は無数の破片に変わった、美しいステンドガラスは、秩序と平和が壊れていく象徴のようにオスカルには思えた。足元の一片を拾いあげると、それは天使の羽根の一部だった。彼女は神父に拾い上げた幾片かを手渡すと、神父は顔を上げて言った。
「・・・・この美しい絵が争いに壊されても、神の王国は揺るぎません。怒りだけに眼を曇らせ神の存在を忘れてしまった人々も、神は許したもうのですから」
曇天の空の下、ガラスは手の中で鈍く光る。
「神は、罪を許し生ける者全てに愛を注がれます。神の愛の前には、何者であろうと差はないのです」
神父は空を仰いだ。彼女もまた、雲が次第に覆いはじめた空を見上げる。あの天上から見れば、人の争いや身分の差など、どれほどのものなのだろうか。
「神の前ではなんびとも差は無い・・」
本当に・・・?

――――硬くかけられた鍵は、溶かす熱とせめぎあっている

夜、月光の差す庭に出ると、白い花が眠る鳥のように丸くなって沈んでいた。不用意に手を伸ばすと、小さな痛みを感じた。手首に赤い一筋の引き攣れが残っている。不思議なものを見るように、その傷を見つめていると、いつの間にか近づいた人影が手を取って、傷に唇をあてた。
風が梢を揺らすようなざわついた音を立てて、全身を血が走る。舌の先が微かに傷に触れると、そこから身体が痺れる。オスカルは月を仰いで、まわった毒を逃がすために深く熱い息をついた。

その気配に彼の動きが止まり、しばらく逡巡した後で、彼女の手をそっと離した。中空にある望月は煌々と明るく、恋人達を照らしだしている。どこに誰の目があるとも知れない。彼の目がそう言っていた。

彼は、以前よりもっと深く鍵をかけるようになった。以前なら、何気なく触れていた指先も、今となっては容易に熱を帯びる。気づかれないよう、知られないようにしなければならない。さもなければこの恋が阻まれるかもしれないと。それだけが恐ろしかった。焦がれ続けてようやく手にしたものを、手放すことなど考えられない。血が溶け合っているものを、今更二つに分けられるだろうか。
青い血管の透けた白蝋の皮膚の上に、一筋の傷。鍵など消し飛んでしまって、開け放たれた扉の中から、いっきに熱が噴きだした。腕をとり、唇を近づける、うっすらと赤く滲んだものを舌で拭い取る。苦い。その苦さに陶然となった。
彼女の熱い息とともに抱きしめ、唇を合わせる。手はせわしなくもどかしげに、背中の絹地の上を探るだろう。互いの熱以外、何も感じられなくなるだろう。そうしてしまいたかった。

せめぎあう激情とは裏腹に、彼は黙って彼女の身体を離す。彼女は眼を伏せたまま、夜の花のあいだに佇んでいた。
そこへ彼女を呼ぶ声がして、軍から火急の命令がきたことを告げた。

―――鍵はかけられている限りその役目を果たす

この鍵が無ければいい。二人を隔てるものが無ければ。出自、身分、地位、それらを構成し、とりまく全てのものが。

オスカルは掌の上に点々と散った赤い染みを見つめていた。血液独特の生温かい匂いが漂っている。死が間近にあることに不思議と恐ろしさは無いが、残された日々の短さを思い知る。そして後に遺していくかもしれない愛する者の嘆きを。
自分の命も、国の命運も、これほどに追い詰められていてなお、鍵をかけて守らなければならないものとは、何だろう。身を削るほど誰かを愛することが、神の前でも罪になるのだろうか。
“神は全ての罪を許し・・・・・神の前ではなんびとも差は無い”

―――ならば その鍵が無ければ

「・・オスカル」
彼はいつも密やかに名を呼ぶ。耳元で、小さく、呟くように。声と共に湿った息がかかって、それだけであっさりと掛け金が外れてしまう。後はただ翻弄し、翻弄されるだけ。名残の汗が引いて、息遣いが穏やかになった。彼女は眠っている恋人の横顔を見ながら、もう鍵が要らなくなったことを感じた。

やがて夜が明けて、空が晴れていたら、そうしたら・・・鍵を外そう。彼はきっと微笑んで私の名前を呼んでくれる。神の前で全ての人間に差がない、そんな世界が、これからくるはずなのだから。
彼女は恋人の腕の中で、ガラスごしに、西に傾く月を仰いでいた。もうすぐ夜が開ける。月の光に代わって曙光が部屋を満たしはじめた。

―――恋にかけた鍵はもう いらない

暑い日だった。青い空は、天上の神が見えるかと思えるほどに高い。馬を進めると、かの教会の前まできていた。神父は壊れた窓の下に立ち、今日も空を見上げていた。
「アンドレ・・・この戦闘が終わったら」
彼女は愛しい恋人を振り返って微笑む。

鍵は、ずっと自らの内にあった。硬く鍵をかけていたのは他ならぬ自分自身で、それを外すのもまた自分にしかできないことだった。
「この戦闘が終わったら、結婚式だ」
彼女は重い鍵を外して、扉を開いた。その先には光が溢れている。
「行くぞ、アンドレ」
「ああ、行こう」

扉の外の世界は、未来という名だった。古い秩序という部屋を出て、未知の世界へと足を踏み出す。二人で。

END