死にゆく者の理由

眠れるだろうか。少しでも眠ったほうがいい。青ざめてくまを作り、疲れ果てた顔で死出の旅には出たくない。それはかつての国王にふさわしいものではないだろう。いつもどおり神に祈りをささげて眠ろう。そう考えてからルイは、家族との最後の邂逅を思い返した。

あれでよかっただろうか。伝え切れなかったことは無いか。いや、ある。私がどれほど心から彼ら・・妻や妹や娘、息子を愛したか。到底言葉では伝えられない。でも一番大切なことは伝えたのだ。誰も憎まないこと。私の死によって彼らの心に憎しみなど生まれて欲しくない。特にまだいとけない息子には。子どもが憎しみに身を焼かれることなどあってはならないのだ、だから、あれで良かった。少しでも父としての義務を果たしたといえるだろう。そのことを神に感謝し祈りをささげよう。

硬い椅子から立ち上がる。寝台の横にひざをつき手を組んで祈ろうとした、そのときだった。ふと、声が聞こえた。
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ルイは振り向いた。看守の足音もせず、勿論部屋の中に誰もいるはずは無い。空耳か、そう思い姿勢を正したとき、もう一度。今度ははっきりと聞こえた。頭の中に。

なぜだ?!

それは声ではなかった。頭の中に文字がくっきりと浮かぶように、突如としてわきあがった言葉だった。

何故だ!!

彼は立ち上がり、おろおろと周囲を見回した。蝋燭の明かりに浮かび上がる自分の両手に目を落とし、それから頭を抱えた。その言葉が自分のうちから発せられたことに動揺した。

何故、私が死ななければならないのだ?!

突然、何の前触れもなく言葉が全身を駆け巡る。彼は殆ど叫ぶところだったが、とっさに両手で口を塞いだ。彼は天井を仰ぎ、床に眼を落とし、ふらふらと寝台に沈み込むように座った。

何故死ななければならない?

何故って・・それは。それは・・・国王だったからだ。国王として国に君臨したから殺されるのだ。この国は私の血を流さなければ、新たに生まれ変わることができないからだ。私はその礎として・・。
そう納得した、自分自身に信じさせて。そうでもしなければ、立っていることもできなかっただろう。人間には・・死に直面した人間には何かの理由が要る。私の愛した国が、私の命の犠牲の上に、少しでも正しい道を行くというなら、この身を滅ぼしてもいい。そう信じたからこそ、今日の別れにも臨めたのだ。何をいまさら・・今、このときになって動揺する?これは悪魔の声か?神が私を試されているのか?

彼は胸を押さえ、早まっていた息を整えようとした。私は国王だった。今は称号すらないひとりの人間だが、この国を愛することに変わりは無い。今でも覚えている。王太子妃を迎えたときのパリの人々の熱狂、国王崩御を叫びながら部屋に入ってきた大勢の貴族達。彼ら一人ひとりを私は愛していた。誰も・・王妃に他に愛する男性がいると知ったときも・・誰一人、憎んだりしなかった。私は与えられた運命を受け入れ、それに沿いながらここまできた。後悔が無かったとはいえない。しかし、もう此処まで来てしまってはどうしようもないのだ。どうして、今になって・・。

たった一票差だったと聞いている。名も無い一人の若者の熱弁によって、それまで国王の不可侵を信じていた者たちの幾人かが心を変えたことも。私の死に投票した者。私の死を望んでいる血縁者ですら、今まで憎もうとは思わなかった。此処に至るまで私は選択肢の多くを選び間違え、あるいは選ぶことを放棄してきた、その報いだと。・・そうだ、報いだ。
彼は自分が少し落ち着きを取り戻したことに安堵し、ほっと深く息をついた。

私はこの国を愛している。国王たるものが国を憎むことなどありえない。だからその国の礎となるなら、この身を捧げよう。それでいいのだ。それで・・この国の。彼はひざに置いた自分の掌に目を向けた。じっと見つめた。ヴェルサイユにいたころと違い、手は荒れていた。彼は急に自分が歳をとった気がした。私も歳をとった・・歳をとった。もうこれで終わりでいいではないか。この国のためだから。この・・・国。

では、国とは何だ?

ふいにまた、言葉が浮かんだ。国とは・・国とは人だ。民がいなければそれは国とはいえない。では、彼と家族をこれから殺そうとする議会、民衆が国か?彼らを我先に見捨てて外国へ逃げた貴族達が国か?それらを愛していると?本心から?
彼は再び動揺した。掌でひざをこすり、頭を抱え考えようとした。私は国の礎となるために・・民衆は貴族の血を求めている・・その貴族達は国を見捨て逃げ出している・・私だとて、一度は捨てようとしたではないか。では、私はなんだ、国王ではなかったのか。真実国王であったはずなら、国を知っているはずだ。国が何であるか。私は・・国とは。考えろ、答えを出すんだ、この迷いを持ったまま明日断頭台に立つわけにはいかない。

国とは・・国家とは。王を絶対権力者、国民の父、神との介在者として君臨させ統治させ、その威光はあまねく全土まで広がる。太陽王は確かに自分が国家そのものだといった。それはそのとき正しかった。だが私は。ただ唯々諾々と王位につき、その職務をこなすことだけに忠実だった。それは国家といえるのか。違う、私は国家ではない。では何が国か。必死に彼は心の中を探った、どこかに答えがあるはずだ。無いはずはない。私は国王だったのだから。
ルイは、十六世という自分に被さられた皮袋のことを思った。それは人々が彼に課し、その役割を果たすことを望まれた仮面だった。その皮袋をはずされ、一人の人間となった今、自分のよりどころは何処にある?家族・・は愛している。その想いに揺るぎは無い。ではそれだけか?市井の一民衆と変わらないではないか。仮にも王であったなら、他にも何かあるはずだ。数十年その座にいたのだから。何も無いはずは。彼は考え続けた、拳でひざを何度も叩いた。しかし、何も浮かばなかった。何も・・。

拳はぶるぶると震え、彼は歯噛みした。腹の底からふつふつと・・今まで体験したことの無い感情がわきあがってきた。私には何も無いのか?!国王の皮袋をはずされてしまえば、家族への愛以外何も持たない空っぽの人間なのか。彼の中から湧き上がるもの、それは--怒りと憎しみだった。今まで経験したことの無い黒い激情。それは彼自身に向けられた憎しみ。王であったことの矜持がそのまま憎しみとなって彼を襲った。死を前にして、いや死を前にしているからこそ、わきあがってきた根源的な疑問に答えられない我が身の不甲斐なさに、全身を怒りが駆け巡った。私は明日命を落とす、その理由すら見つけられない・・・。両手で顔を覆い、せめて嗚咽しようとしたができなかった。初めて出会う憎しみの感情、自分で自分に向けたそれに翻弄されたまま、彼は固い石の壁を拳で叩き、うめいた。

神よ、せめて答えを見つけさせてください。そうでなければ、私は最期のときを迎えることはできない。今こうしている間も砂が落ちるように時間が無為に過ぎていく。このままでは逝けない・・このままでは。
全身を翻弄した感情と、頭を抱えて歩き回ることに疲れて、彼は寝台に倒れこんだ。神よ・・お願いです・・・どうか・・。そのまま意識が遠ざかり、目の前が暗くなっていった。

暗闇だ・・闇だ。誰か灯りを持っていないのか。せめて一本の蝋燭を。それが夢の自分の声であったと気づくまもなく、彼は目覚めた。東にある高い窓から薄明かりが入ってくる。夜明けが近いのだと知った。彼は肩を落とし、深くため息をついた。頭を振って立ち上がる。小卓の上に昨晩から置かれたままのワインのグラスがあった。せめて喉を潤そう、無意識にそう思い、彼は一口だけワインを口に含んだ。

それはゆっくり口から喉を通っていき、その瞬間深い葡萄の香りを彼の鼻腔に残していった。彼は手の中のグラスを見た。その中の液体を。その先にある葡萄と、その畑と、葡萄を摘む人々を見た。一面の葡萄の先には丘があり、その先に小麦畑が広がる。陽に照り映える金色の小麦。小川のほとりには水仙が咲き、水面に魚のはねた水しぶきがあがる。高く青い空の片隅には、鳶が一羽とおり過ぎる。深く息を吸う。大地の匂いがした。彼は大地の只中にあった。

ああ、フランスよ---私の国よ!私は帰る。お前の胸の中に。その腕に抱きとめておくれ。私は風になり魚になり花になり小麦になり、葡萄のひと房になって、やがて誰かの喉を潤すだろう。その誰かが愛する者の手を取って、香る台地を歩くだろう。フランスよ、今日私は還るのだ。どうか祝福しておくれ。
お前の愛で私をつつみ、お帰りと言ってほしい。今日、私は帰る。なんと祝福された日だろうか。

大地だ。そして空だ。その間にある全てのものが国だ。私が愛し、生き、呼吸したこの地だ。

彼はそっとワインを卓上に戻した。東の高窓を見上げると、光はもっと強くなっていた。今日は快晴になるのだろう。処刑台の上でも遠く頭上に何処までも青空があり、風は頬をなでるだろう。それを知っていれば、もう何も恐れるものは無い。
神よ、感謝します。曙光とともに貴方は訪れ、私の心を光で満たしてくださった。もう後は待つだけだ。心穏やかに。そして私の国と国民達に伝える言葉だけを簡潔に伝えればいい。それで役割は終わり、私は帰る。魂は神の御許へ、心はフランスの地へ。

朝食が下げられた後、彼は一人、硬い椅子に座って待っていた。やがて数人の足音が近づいてきた。立ち上がり、居住まいをただし、彼は扉へと向かい合う。扉の外に出てからも彼は振り返ろうとしなかった。

その日、空は青かった。何処までも青く、白く薄い雲が風に流れていくだけだった。

 

END