見つめていたい

扉の前まで来ると、花の香りがした。すると、今は香水を選んでいるところだろうか。考えるともなしにそんな思いが心に浮かぶ。もう何度も訪れた部屋、時には朝まで過ごした・・。

薄暗い廊下から入っていくと、その部屋の中は柔らかな陽光で満ちていた。その光は決して鋭すぎないように計算されている。あまりに明るすぎるのは、この妙齢の女性にとっては、これ以上ないくらいの無礼な仕打ちだった。
迎え入れられた部屋のなかでは、数え切れないような化粧瓶。侍女はドレスを持ち、また別の侍女は宝石箱を開いてかしずいている。

「あら、ヴィクトール・・随分ご無沙汰だったわね」
「つい先日も、此処におりました。お忘れですか」
「そうだったかしら・・」
彼女は答えながらも、宝石箱から眼を上げようとしない。細い指先で、ひとつを指し示すと、侍女が恭しく指定された宝石を取り上げる。
「そのルビーは・・」
「何?」
「いえ、貴方の青い肌には映りませんよ。まるで滴り落ちる血の色だ。貴方にはもっと・・」
「では、こちら?」
彼女が示したのは、深い菫の色の大きな石だった。それを手にとり、化粧着を纏っただけの、白い胸元に当てる。そのアレキサンドライトの深い紫は、肌に吸い付くように光を放っている。その反射で肌はいっそう青みを増した。
「そう、その色のほうが貴方を際立たせる」
「でも今日のローブはこれなのよ」
指し示されたそのドレスは、一見黒にみまちがえるほど、深い碧色だった。その重いシルクの生地に紅い花と、その花に絡みつく蔓。其処ここに蝶が舞っている。
侍女が二人がかりでそのローブを女主人の前にあてると、その深緑は肌と一体になり、あたりは午後の化粧室でなく、深い森になった。彼は一瞬、自分がその妖しげな花の蔓に、絡めとられた気がした。だがすぐに情景はもとの部屋に戻る。
「素晴らしいローブですね。まるで生まれた時から貴方が纏っていたようだ」
「この花に合わせるなら、やはりこちらでしょう」
女が何も言わなくても、察した侍女がルビーを主人の胸元に飾る。首筋に、光を反射したルビーの朱が散りばめられ、彼はまるで愛撫の痕のようなその色を見ていると、唐突に女の白い肌に吸い付きたい衝動にかられた。彼は黙って立ち上ると恋人に近づき、心の中の欲望に従った。
「駄目・・よ。ヴィクトール、ルビーが落ちるわ」
「・・かまいません」
「駄目だったら、これは大切な」
「大切な・・?」

彼は胸元から顔をあげると、その瞳を探るように覗き込んだ。射すくめるような視線にもひるむことなく、女は微笑を浮かべている。
「とても気に入っているの。壊したら貴方でも許さなくてよ、ヴィクトール」
「そう、大切なものでしょう。新しい恋人からの心のこもったプレゼントだから」
「・・つまらないことを言うのね」
彼女が優雅に手を振ると、侍女達は恭しく一礼してから部屋を出て行った。その手の動き、真珠のようななめらかな肌、無造作に結い上げられた髪から覗くうなじ。どれほどの愛しさをもって見つめてきただろう。その日々は輝かしいものだった。

「侍女を下がらせる必要はありませんよ。今から髪を結って、仕度しなければならないでしょう。今日の夜会は大々的なものだ。貴方がいなければ火が消えたようになります」
「別に急がなければならないものでもないわ」
彼女は指を伸ばし、彼の形のいい頬をなぞった。入念に手入れされた、生のままの栗色の髪を指先で弄ぶ。
「相変わらず鬘はつけないのね。そのほうが素敵よ、この髪は」
「落ちる直前の陽光のようだから・・貴方がかつてそう言った」
「今でもそう思っているわ」
彼は腕のなかにある、少し赤みがかった金髪を見下ろす。着飾ったときには白い鬘で覆われているこの髪も、ベットの傍らの蝋燭の明かりの下では、妖艶にその深みを増すのだ。彼女が身を捩るたびに蠢く金の蛇。何度、その髪を手に取り、口づけたことか・・。
彼は苦笑した。何を考えても過去形になる。まだ自分の中の火は消えていなくとも、終わったことだと思っている証拠だ。
「さあ、もう支度なさったほうが良いですよ。貴方を待っている人のためにもね」
「何故、今日に限ってそんなに急ぐの」
「それは・・私がもう此処にはいられないからです。わかっているでしょう」
「貴方の他に私を待っている人など、いないわ」

柔らかな唇があてられた。その唇から何度優しい嘘をつくことか。なじんだ香水の香りに包まれて、嘘に取り込まれてもいい気がしてくる。細い身体を腕で閉じ込めて、唇へ、耳元へ首筋へとキスを降ろしていく。女の肌が上気するのが分る。だがその時、彼の視界の片隅に、深緑のドレスが映った。
彼は乱暴に彼女の身体を引き剥がし、何も言わずに扉へ向かった。
「ヴィクトール!」
突き刺すような声が彼の背中に響く。
「・・・戻っていらっしゃい」
絹の靴の音が近づいてくる。扉の前に立ち尽くして、ノブに手をかけた彼の背後に、甘い香りが広がる。彼は息が出来なかった。熱い息が首筋にかかる。
「ヴィクトール・・あなた」
彼は扉にかけていた手を離した。

――女など、こうして抱いてしまえば、皆同じなのに――
シーツの上で、おしゃべりな金髪が揺らめく。声よりも表情よりも、うねる金の波が、何より腕の中の女の感情を表していた。こんな風に小刻みに髪が揺れる時は、深い悦楽のなかにいる証拠だ。そんなことも残らず知っているほどの、長い付き合い。

ひとつひとつ、女の新しい面を知っていくことが、驚きであり喜びだった。飢えた者が水を貪るように、彼は彼女の全てを知りたいと願った。しぐさの意味、言葉の裏、好きな宝石の色、背中の小さな痣。でも今はもう、何に気づいても感動は無い。

――ドレスを脱いで、ベットにいる女は、皆似かよっている。長い髪と白い手足。その身体に、きっと女が拘るほどには、たいした差は無い。女が腕の下で声をあげている事、そのものが重要なのだ。
だが・・ならば何故、他の誰でもなく、この女でなければならないのだろう。おしゃべりな金髪で、触れると吸い付く肌をした女。どこにでもいるだろうに。この女だけが、かけがえが無いと感じる。こんな風に終りが見えていながら、なお抱いてしまう。何故だろう――

襞に絡めとられて、熱くなる身体とは別に、彼の心は別のところを彷徨っていた。もう二度とこの腕に抱くことも無い、そう思えば、また違った感慨が沸く。
――どうせ終りなんだ。ならば今は、尽きることなく貪ればいい。
彼は乱暴なほどに、力強く女を突き動かしている。その顔の苦悶とも歓喜とも付かぬ表情を見下ろしながら、ここまでなじんだ関係に終止符を打つことの、寂しさがつのった。だが彼の心とは裏腹に、身体の方は終局へと近づいていた。
「あ・・あぁ」
女があげる断末の声を彼が唇で塞ぐ。その舌の動きも終わる前とはすでに違っていた。そのまま力が抜けていき、汗で濡れた体をシーツの上に投げ出す。彼女は終わった時、体をかぶせられるのが嫌いだったから・・。

自分が暫く眠っていたと、気づいた時に彼女の姿は無かった。隣の居間で、侍女を従えてドレスを着ている気配がする。
「行くんですね・・」
「あら、お目覚め?もう日が傾きかけているから、頃合いだと思って」
けだるそうに立つ女主人に、侍女がコルセットの紐を締めている。胸の上には彼がつけた痕があるはずだったが、巧みな化粧で消されてしまったのだろう。デコルテは雪のように白いままだった。そこにはこれから、あの見事なルビーが飾られることだろう。
彼は名残とばかりに、まだ結い上げられていない金髪を背後から手に取り、口付けながら言った。

「私もお暇します・・思いのほか長居をしてしまった。またいずれどこかでお会いできるかもしれませんが」
「そうね・・」
振り返らない女の表情は見えない。見ないほうが良いだろう、そう彼は思う。
「ねえ・・ヴィクトール」
「何です」
「貴方・・わたくしの金髪が好きだったでしょう」
「ええ、とても」
彼はまだ手に取ったままの髪に視線を降ろす。シーツの上とはまた違った色合いになっている。傾く陽光を反射して、いっそう深みが増すようだ。
「貴方がそんな風に髪に触れるのが好きだった。でも、他の女の金髪を誉める男とは・・終りね」
その言葉は彼にとって意外なものだった。
「私が・・ですが?」
「覚えていないの?本当に薄情な男。それとも、気がついていないのかしら」
いったい何の話なのか、いぶかしむ彼に、彼女は哀れみともつかぬ表情で、それ以上何も言わず、彼の前に扉を閉めた。

――最後に謎かけをされたかな
彼には本当に覚えが無かった。恋人の前で他の女性の金髪を誉めたって?そんな迂闊なことをした記憶は無い。長い付き合いだから、どこかで油断したか、とは思うが。
でも確かに彼は恋人の髪が好きだった。朱に染まる直前の西の空のような色。巧みに表情を変え、言葉よりなお雄弁に語る金髪。髪粉に白く隠され、気取って結い上げられた髪には無い魅力があって、彼は他と比較できるなどと思ったことは無い。
彼は溜め息をついた。終わったことだ。最後に喉に引っかかった小さな骨も、時間とともに忘れるだろう。彼はそう思い込もうとし、少し肩をすくめただけで、家路を帰っていった。

「ジェローデル大尉、どうした?」
突然問われて、彼は我にかえった。ここは執務室で、自分は今、上官に報告の最中だというのに。窓から差し込む九月の陽光を見つめたまま、しばし放心していたようだ。
「大変失礼しました。少し・・」
「いや、疲れているのではないか。目が赤いし、寝不足ででも」
彼より少し年上の、その上官の声に非難めいた口調は無く、ただ部下の体調を心配している優しい声音だった。
「お前がそんなにぼんやりするなんて珍しいな、元気も無いようだ、どうかしたのか」
こういうところはやはり女性だからか、とも思える。いや、男性女性の別なく、彼女自身の美点といえるが。
「疲れているというほどでは・・少し陽射しが眩しかっただけです」
「でも風は心地よくなってきた、もう夏も終りかな」
そう言って、彼女は立ち上って窓を開けた。夏のあの纏わりつくような風ではなく、涼やかな一陣の風が、部屋のなかにも通り過ぎる。風に髪を僅かに揺らしながら、窓辺に立つ彼女の姿に、彼は今度こそ本当に呆然としていた。
「・・・ジェローデル?」
怪訝そうな声にもしばし返答できない。
「いえ、あの・・貴方の髪が」
「髪?」
「陽光に映えて、とても・・美しいと思って」

彼女は呆れかえった顔をして、彼をまじまじと見ていたが、やれやれという風に首を振った。
「ジェローデル大尉。そういう台詞は気のある女性に向かって言うべきだ」
椅子に座りなおし、そのまま黙って報告の続きを促している彼女の態度に、彼もようやく我に帰った。
たどたどしく非礼をわびてから、彼はなるべく平静に仕事を続けた。しかしどうしても、光を含んだ彼女の金髪に目が行ってしまう。
―――そうか、髪を誉めた他の女性というのは――

あれは何処でだったか。彼女が愛馬に乗って遠ざかるのを、今のように見ていたことがある。青い空の下のその姿は、まるで完成された絵画のようだった。いや、どんな画家でも、彼女を、ことにあの髪を描ききることは不可能だろう。
そんな風に考えていると、いつの間にかあの恋人が傍らにいたのだった。彼の視線の先に気づいて、何か話していた。
「金髪というのは、それが冗談の種になるほど語り尽くされているけど、彼女の髪は他の何者とも違うね。おしゃべりだったり、寡黙だったり、初心だったり。いろんな金髪があるが、彼女のそれは何とも表現できない。異質で・・たぐい稀なんだ」
そう熱っぽく語る彼に、恋人は何と答えたのか、覚えていない。そのときの彼は、ただ彼方に消えていく彼女の姿だけに、心を占められていた。横にいる存在を忘れるほどに。

―――振られるのも、無理はないか
彼は小さく苦笑すると、顔を上げた。彼の上官は書類に目を落としたまま、視線には気づかない。ふと仕事の手を止めて、彼女を見つめる。

金髪が窓を通した光を吸い込んでいる。陽光の下では、もともと少し薄目の色が、なおいっそう透明になるようだ。対照的に陰になっている部分は、目の錯覚かより深い色に感じる。僅かに頭を動かすたびに、その陰影が揺らめいて、様々な色を映す。
彼はその髪の一本一本を、舐めるように見つめたまま、身動きできないでいた。
―――まるで、何だろう。そうだ、メデューサのようだ。男の視線を奪い、見たものを石にする。もっとも、彼女の場合はその美しさで、見る者を捕らえてしまうのが違うところだ。
あの髪が、夜の蝋燭の下でどんな風に動き、何を語るのだろう。さわさわと揺れる時、言葉にはしない感情を漏らしてしまうことがあるだろうか。自分を見下ろしている彼女の髪が頬に触れる。私はその金の糸で編まれた蜘蛛の巣に捕らえられている。それに口づけるとどんな香りが?よくつけているあのジャスミンか、それとももっと別の―――

彼女が書類を手に立ち上がり、彼のほうに向かって歩いてくる。ようやく呪縛の解けた彼は、平静な表情で受け取り、彼女の手元に目を落とした。その白い指先を見た途端、胸の奥がざわついた。彼女が動くたび、息をするたび、彼女から眼が離せなくなる。呼吸の間隔は短くなり、手の先までが熱くなっていく。
彼は観念した。自分を捕らえているものが何であるか、ようやく気づいた。

―――女に恋することなど当分ご免だ、と思ったばかりなのにな―――
出合って、恋して、愛しあうようになって・・でも多分その先には終りが待っている。わかり過ぎるほどわかっていながら、何故また捕らえられなければならないのか。
しかしそれでも、恋をしている時間は至福の時なのだ。それが証拠に彼女を見ればいい。金の髪のなかに、瑪瑙の色彩が踊る。白木蓮のようにしっとりした肌の白い顔。瞳は海の底の瑠璃の色。唇は明けきらない朝の睡蓮。ほんの少し色づいた指先は・・。
見つめているだけで充足する。彼女の動きを目で追うだけで、喉の奥が熱くなる。痛みを伴った胸の高揚は、なにものにも換えがたいことを、彼は知っていた。
―――捕われたのなら、観念するしかない。所詮どうやっても逃げ切れないのはわかっている。それならば―――

時計の針が時を打つ。
「ジェルジェ准将、閲兵の時間です」
「ああ、わかっているよ」
立ち上がる彼女は、今までの彼女とは違う。彼にとって全く新しい、唯一無二の存在になっていた。ただ、陽に揺れる髪を見ただけで・・。
――今は見つめていることしか出来ないが。でもいつかきっと―――

END