コルセット

身体を変えることを知らずして何を快楽と呼ぶのか

紐を締めていくと、鯨の骨がきしきしとした音を立てた。コルセットの下につけた絹の下着の飾りが胸とともに揺れる。
「・・・苦しい」
「もう少し締めないと」
「息が止まってしまう」
借りたホテルの一室で、彼の手でコルセットの紐が締められていく。
「もう一度息を吸って・・そう」
「・・・ん・・」
「ゆっくり息を吐いて」
息を吐き出した彼女は、彼の手が離れると同時に眩暈をおこした。
「大丈夫か」

彼の腕に倒れこんだ彼女は答えられなかった。眼をつぶっていても、周囲が廻っているような奇妙な浮遊感がある。彼はそのまま抱えあげると、長椅子にそっと横たえた。
「慣れるまで少し休むといい」
「・・・外したい」
「それは、駄目だよ。着けたばかりだろう」
怒ったように顔を横に向けてしまった彼女を、彼は笑いを浮かべながら見下ろしている。
「深い息をゆっくりしていれば良い、すぐに慣れる」
彼女は聞こえない振りをして、腕で目を覆ってしまった。こんな苦しいもの・・まるで拷問だ。

彼が長椅子の足元に屈み込んで、ほっそりした足首を手にとった。
「何?」
「靴下を・・じっとして」
しなやかな曲線の上を、刺繍を施された絹が覆っていく。陽に晒されたことのない肌は、薄青い血管が透けて見える。彼はふと手を止めて、その青い線を舌先でなぞった。
「・・あ・・っ」
声に反応して彼の動作が止まる。咎める青い眼と、悪戯な黒い瞳が絡みあった。

彼は何事もなかったかのように靴下をすっかり上まであげてしまうと、蒼い繻子のリボンで留める。息が苦しくて霞んだ頭に、指が足を伝うその感覚だけが鋭利で。深くゆっくりした息遣いに、先程とは違った熱があるのが彼にはわかった。僅かに開かれた唇に自分のそれを寄せて、息を吹き込むように合わせる。
「・・苦しい・・」
「誰の所為?」
彼の目元が笑っている。
「パニエも着けるのか?」
「どうかな」
「・・これ以上重いものを着たら、一歩も動けそうに無い」
「このドレスには要らないよ。立ち上がって」

「何故、こんなにまで身体を変えなければならないんだ。苦しくて、息も辛い。走ることもできそうに無い」
「慣れればできるものだが、確かにルソーの教えには反しているな」
「まるで拷問の拘束具だ、無くしてしまえば良いんだ。こんなもの」
「それは無理だろう・・知っているかい。東洋の国では小さい頃から女性の足を小さく縛るそうだ」
「何の為に」
「固く布で縛り、靴に押しこみ、ひとりではとても立てないほどの小さな足にする」
「この内臓を圧死させそうなコルセットと同じようなものだな。畸形を作り出すというわけだ」
「・・恐ろしいんだよ」
「何が」
「自然が、さ。制御されないもの、生のままのもの。女性は血を流して子どもを産む。その野生が男を怯えさせるんだ」
「馬鹿なことを」
「嵐、雷、雹、天変地異。自然は恵みであり脅威で、それを制するのが人間の生き延びる道だった。形を整えられない木々は恐ろしいが、幾何学模様に刈り込まれた木は美しいというわけだ・・さあ、できたよ」

鬱金色の絹に銀糸刺繍の鳥の羽、猩猩緋の野茨、鶯色の蔦、深紫の菫、柑子色の芥子。日頃貴婦人たちのローブを見慣れている彼女も、どこか異国の香りのする独特の意匠に感嘆した。
「夕暮れの金の原野だ、青みがかった肌に良く映える」
彼の前に立っている恋人は、現実に目の前にいるにも関わらず、どこか幻めいて見えた。
「ローブ姿を見るのは二度目だが・・」
あの時の彼女は、青みがかった生地の、身体の腺をなだらかに覆うドレスだった。腰の位置で襞の寄せられた形は、上背のある彼女をほっそりと見せていた。見る者を誘い込むことをあえて拒む女のための服。

だが、これは違う。高く持ち上げられた胸のふくらみから続く腰の線は、腕を回せば折れそうなほどの細さ。肩を上げられないほどぴったりとした二の腕の先には、気の遠くなるほどの時間をかけて編み出された三重レースの袖飾り。真珠を蛇のように巻きつけた手首は、普段手袋に覆われている皮膚が白く透けて血管が浮かび上がっている。
形も線も、男の視線を吸い込むことを何よりの美徳としてきた、オブジェとしての典型。
「アンドレ・・?」
黙り込んだ彼に、不安げに彼女が問いかける。

着ると言い出したのは自分で、見立てたのは彼だった。彼女は”以前とは全く違った物を”とだけ希望を伝え、口の堅い仕立て屋が差し出した絹の洪水の中から、彼が意匠を選びだした。
彼女の真意をどこまで判っていたものか知らないが、見立てられたローブは、彼女自身すら知らなかった感覚を呼び覚ますものだった。華麗だが走れないほどの小さなヒールの靴で立った時、オスカルは泡から生まれた人魚姫のように、覚束ない足取りで彼の前まで進み出た。不安定な足元、息を詰まらせるコルセット、動くたびに裾を鳴らす絹。その全てが。

身体を変え、自分を変え、男の賛美を受ける形になったことの甘美さがこみ上げてくる。欲望は歪んだコルセットをとおして、鯨骨の鳴る音とともにさらに増す。女の形になって見られている。そのことだけがこれほど甘いとは知らなかった。

歓喜がこみ上げてくる。他の誰のためでもない、愛しい男ただひとりに見てもらえばそれでいい。
「何か言ってはくれないのか」
彼の腰に腕を廻し、誘惑する視線で見上げる。
「こんな女が存在することが奇蹟だ」
隻眼に先ほどとは違った光がある。賛美と深い欲望---着せたばかりのローブを剥ぎ取って抱いてしまいたい。

声にならない声が聞こえて、背中に電流が走った。拷問も与える者と形によっては快感となり、苦痛でしかなかったコルセットの骨も、抱きしめた彼の腕の中で鳴る時、どんな音楽より陶酔させた。
「踊る?」
「動けるかな」
言葉が終わらないうちに、彼の片手が腰に回り、密着した体が緩やかに動き出した。音など無くても、鼓動こそが音楽だった。絹とコルセットと厚い布地をとおして、体温と脈が伝わる。深く熱い息が頬にかかる。動いたためか、抱かれているためか、次第に息が詰まり視界がぼやけてきた。滲んだ目の中に、黒い髪と隻眼だけが映っている。見上げていると唇が降りてきた。音楽が止まって・・・・。

身体の奥深く、何処にこんな感覚が眠っていたのだろう。指先が触れていくだけで呼び覚まされる悦楽。昼と同じ喉から出ているとは信じられない声。
--ああ・・そうか
身体を捻じ曲げ拘束するあの鯨骨は、解放された時の快楽を約束しているのか。
彼の指が背中に廻って従事に重ねられた紐を緩めていくと、思わず深く息をついた。その吐く息を塞がれて、唇が降りてくる。鯨骨が肌に残した紅い痕を舌が辿っていく。

---喉が渇く
「は・・・あっ」
---声が出ない

唇が荒々しく合わさって舌が蹂躙される。喉は潤わずもっと渇くだけ。胸を掴んでいる指の力が痛い。渇きすぎると声も出なくなることを知った。脇腹をざらついた感触が降りていく。渇けば渇くだけ欲しくなる。足の間の核を吸い上げられて身体が跳ねる。渇いて渇いて渇いて渇いて・・欲しい。もっと。
「熱い・・・融ける・・」
どちらの声か判らない。指が穿たれる。彼の塊を指で包む。押さえつけられた髪が痛い。肌の味が塩辛い。掌が濡れて滑る。渦に叩き込まれる。廻りながら落ちていく。昇りつめて。

---私は狂ってしまったのだろうか 求めても与えられても渇きは潤わない
声に出したつもりはなかったが彼の耳には聞こえたらしい。
「お前だけじゃない」
狂っているというなら、腕の中でうねるこの肢体にこそ溺れている。ここにいるのはただの肉塊ではなくて、白く薄く脆い肌とその下で様々に動く筋肉と脈打ち流れる血、その中に確かにあるものにこそ、惹かれている。
想いを重ねていただけの年月の後にやってきたこの熱に、のめりこむ事は容易く、お互いを貪るだけの営みが時折空恐ろしくなる。ずっとこの身体を夢見ていた。決して触れられないだろうと思っていた。それを手に入れてみたら、どうだ。触れるごとに次が欲しくなる。首の窪みに溜まった汗も、絡み合う舌も、柔らかい繁みの奥のあわいも、触れて、なぞって、まださらに奥がある。
どこまでいけば底があるのか、そもそも何処かへ辿り着くのか判らないまま。

背中を辿っていた指先が突然肌に食い込む。それが合図となって互いが繋がっていく。擦れた叫び声さえどこから出ているのか。
「あ・・・あっ・・・もう・・」
人間の声でも言葉でもなくなっている。繋がった箇所が熱く、跳ねる身体がシーツに叩きつけられる。
「オスカル!」
叫ぶ声と唇が貪られるのが同時で、次の瞬間頭の中がはじけた。身体が小刻みに震え、急速に力が抜けていく。呼吸が次第に穏やかなリズムになっていった。

やがて混濁した意識が目覚めてくる。彼女は胸の上に置かれた恋人の腕をそっと撫でながら、蝋燭の消えた暗い部屋をぼんやりと見回した。床に点々と衣服が散らばっている。乱れて解かれた紐もそのままにうち捨てられたコルセットは、闇に浮かぶ白い染みのようだ。

女の身体の抜け殻。もう一度身に着けることはあるだろうか。
縁飾りのついたシュミーズの上に鯨骨を当てて、息を溜めたまま紐を締めていく。白い腿で止める絹靴下。腰に結んだパニエの上に何重ものペティコート。気の遠くなる時間をかけて刺繍が施されたローブは、動くたびに背中の襞が揺れる。女に生まれ女として生きれば、否応無く纏っていた数々の品。

---私には要らない
多分、それを確認するためだけに身に着けた。女の服を着なくとも、この身体は女以外の何者でもない。内臓が歪むほど身体を変えなくても、抱きあうだけで確かに中から変化していく。それを知った上では。
彼の手を取り、指先に口づける。其処から立ち上る香りは、自分の・・・と彼の汗が混じったもの。これだけで充分だった。

彼も眼を覚ましていて、そのまま腕に絡め取られる。コルセットは床に沈んだまま、二度と拾い上げられることはない。

END