今を生きる

人生とは坂を下るだけだと気づいたのは、何時頃だっただろうか。

 

朝、起きると骨が軋んでいる。左手を目の前に持ってきて、指が動くのを確認する。まだ動ける、まだ生きている、まだ・・。老いた従僕が、盥に湯を張って持ってくる。彼の手も歪んでいるが、長年の労働に耐えた手はよどみなく動く。彼にもそろそろ暇を出したほうがいいだろうと思う。このような時世の折に、貴族に使えているというだけで苦しい思いをしているかもしれない。人生が終わろうとするなら、自由にしてやるべきではないのか。

だが、私は何も言わなかった。むろん彼も余計なことは言わない。彼らの胸の内にどれほどの思いがあろうと、貴族である主人に心情を吐露することなどない。

私は左腕の痛みから気をそらすために、深く息を吸い込み背筋を伸ばして兵舎に向かう。閲兵の掛け声、隊列を組む足音、敬礼する下士官達、その間を抜けながら司令官室に入った。軍では命令と規律が全てだ。少なくとも表向きは。あるべき法則に従っていれば、生きていける。そうやって、老境が近づくまでやってきた。だが・・・。

 

司令官室に上官が入ってくる。私は立ち上がって敬礼する。いつもと変わらない光景。しかし心なしか、謹厳な上官の顔が青ざめている。ここ数週間、准将の顔色はいっそう抜けるように白くなり、細い掌にはうっすらと血管が浮き出ている。妻もそうだった。最後の数か月、日を追うごと、魂が漂白されたように白く細く儚くなっていった。部屋には微かに血の匂いがした。白い顔に睫と髪が深く影を落とす。鋭く細い顎の線。血の匂い。同じだ・・また、私は手をこまねいているだけだ。

たまらず、声をかけようとした。口を開こうとしたその時、ノックの音がした。隻眼の従卒が入ってくる。准将の頬に少しだけ朱が戻った。ほんの少しだけ。

副官の仕事は多い。特に最近は、蝗のようにパリに流入する棄民と、その後を追うように招集された、三万にも及ぼうかという軍隊。慣れない各連隊との調整、民衆との小競り合い、その度にパリ駐屯の衛兵隊にも早馬が来る。三部会、国民会議の離反、地方の蜂起、暴動。考えていると眩暈がした。仮眠しようと硬い寝台に横になる。眠りに落ちる直前、老僕の顔が浮かんできた。彼には・・パリに身内が・・・娘が確か・・・・。

激しいノックの音で目が覚めた。下士官が声高に私を呼んでいる。若い下士官は声を震わせながら報告する。衛兵隊から反乱者が出た、と。

 

准将が、王妃に謁見を願い出た。准将と王妃とは、まだ王太子妃だったころからの知己だと聞いた。何を話すのだろうか。もう国の瓦解は明白だ。今はまだかろうじて、王自身への敬意は残っているが。貴族へ、軍への反感と敵意は募りこそすれ、弱まりはしない。

謁見に行く准将が、部屋を出る前立ち止まって振り返った。私の顔を見つめて、大佐は貴族として生きる道以外を考えたことがあるか、と訊いた。私は声が出なかった。准将が出ていくと、私は椅子に座りこんだ。貴族以外として・・生きる?そんなことは考えたことも無い。父も祖父も、曾祖父、私に繋がる血脈は貴族以外の何物でもない。それは私の血と不可分なのだ。血を無くすことも分けることもできない・・出来るはずが・・。

反乱者とされた衛兵隊員達が、窓の下で訓練をしている。彼らは許されたのではなく、民衆が彼らを解放するように望んだのだ。王家はそれに屈服したに過ぎない。彼らを極刑にすれば、その日のうちにパリは血に塗れるだろう。それが誰の目にも明らかだったからこそ。

サン・バルテルミの復活。セーヌが骸で埋まる。准将はそれを止めることが出来るだろうか。王妃との謁見が、おそらく最後の賭けだ。パリを、フランスを血の河にしないための最後の・・。

 

夏の陽が傾いた頃、准将が帰ってきた。出かける前より疲労の色が濃い。従卒が心配そうに見ている。彼を下がらせてから、准将が私に向き合い、明日のパリ巡回について確認するよう促した。書類を取ろうと背中を向けると、後ろで軽い咳の音がする。ひりついたような息遣いも混じっている。その音は何度も聞いた・・何度も。

 

私は振り返った。准将は俯いたまま、口元を押さえている。
「隊長」
私の声が常とは違っていたのだろうか。准将は少し驚いたように顔を上げた。
「お疲れのようですから、今日はもうお屋敷にお帰り下さい。何かあれば伝令を出します」
准将は苦笑した。私の心配など一笑に付そうとした。心配ない大丈夫だ、そう言い募ろうとした言葉を遮る。
「私の妻は、去年胸の病で亡くなりました」
准将が目を瞠る。
「ですから、判ります。私には」
しばらく沈黙が下りた。准将は黙ったままだ。どうか・・頼む。半日、一晩でもいい。明日流血の事態になるとしても、国が崩壊していくとしても、残された僅かな時間に束の間、思い煩うことなく過ごしてほしい。できれば、彼と共に。

私は沈黙に耐えられなかった。返答を待たず部屋を持そうとした時、呼び止められた。
―――ありがとう。貴方の言うとおりにしよう。
私は背筋を伸ばして敬礼した。上官に無理に進言するなど、最初で最後だ。

 

馬車が出ていく。准将と・・従卒が揃って乗り込み、土埃をあげながら遠ざかっていく。太陽が西に傾き、空は朱に染まっている。兵舎に入ろうとすると、兵士達が一様に不安げに囁き合っている。ネッケルが罷免された、と。私は馬車の消えていった方角を振り返った。

彼らが安息できる時間はとても短いだろう。国家という巨大な岩が坂を転がり落ちている。全てをなぎ倒し、踏み潰しながら。その後には何が残る?貴族のいない世界だろうか。その中で私は・・。

 

誰もいない司令官室に戻り、椅子に腰かけた。私は痛む左腕を見下ろしながら、老僕を十分にねぎらって暇を出そうと思った。彼の娘に銃を向けるかもしれない私が、おそらくは死の瞬間まで貴族としてしか生きられない私が、老境に入り消えていくだけの私が――できる唯一のことだ。

馬車で遠ざかっていった、今と未来を生きるあの二人に。

 

 

END