夜の女

「どうして泣くの」
「・・泣く?」

「ほら・・」
女が自分の頬をぬぐった指先を男の喉にあてた。
「女を抱きながら泣いてるのにも気づかないの」
腕の中で女が笑った。憐れむ表情は無かった。何か言おうとした彼の口を濡れたままの指先で塞ぐ。
「謝ったりしないで。好きよ、その顔」
彼は身を起こし、両手で自分の顔を覆うと掌が濡れた。泣いていることも、涙が女の頬に落ちたのも気づかなかった。
「こんなに綺麗な黒い瞳なのに、ひとつしか残ってないのね。でも涙は両目から出るんだわ」
不思議そうに覗き込む女の髪は金色だった。眼は青。しかし目の前にあるのに顔立ちははっきりわからない。月明かりは窓から差し込んでいる。暗闇なのではない、彼の眼が見たいと望むものしか見えないのだ。
「ねえ・・」
離れた彼の体温を取り戻すかのように、女が首に腕を絡めてきた。
「あなたが好きよ。私を抱いて泣きながら他の女のことを考えているあなたが、とても好き」
彼は黙って女の胸に顔を埋めた。柔らかさの下にある鼓動にまた涙が流れる。暖かい腕、優しい声。もし愛せたら、届かない月ではなく確かにある体温に溺れることができたら。いっそ知らない大陸の砂漠の中に飛んでいくことができたら。どれほど涙しても消えることの無い想いを捨て去ることができるなら。
「あ・・・あぁ・・」
女の声が響く。終わらないでくれ、このままでいてくれ。夜を続けさせてくれ。もう二度と目覚めたくなどない。永久に光を失うかもしれない朝。彼女の姿を眼で追うことすらできない日々。そんな朝が来るかもしれない。
夜に抱く夜の女。暗闇のように人を包み静けさの中に誘う。お前の力で朝の光を押し戻してくれ。永久に目覚めることなく。

「でもそれは・・」
女は彼の上にいて半身を揺らしながら、両手で彼の頬を包んでいた。
「あなたの真の望みじゃない。名前も知らないあなた、私はただの--女よ」
女の声が部屋の隅の暗がりに吸い込まれた。声が終わると同時に絡み合った二つの体が激しく震えた。互いに涙を流したまま。

夜が白む前、女は床に散らばった黒いドレスを手に取り、音もなく纏ってしまうとそのまま部屋を出て行った。彼は扉の閉まる音を背中で聞いていた。月はとうに沈み、夜明け前の薄明かりに浮き上がる寝台に、金色の髪が落ちていた。もし陽の下ですれ違ってもお互い気づきもしないのだろう。

夜は、終わったのだ。

 

END