鏡よ鏡

この世で一番美しいのは、誰?

 

パリスならば林檎を手渡すだけで良かったが、ほとんどの場合はそうもいかない。私は美しい?――よりも、――公爵夫人よりも?私が一番美しい?毎日、毎日、女たちは訊ねる。髪結いである俺の答えは-おとぎ話の鏡とは逆で-真実ではない。
勿論、貴方様です。皆が注目するでしょう。この紗の生地は貴方の瞳の色に合わせて染めさせました。ただの青でないことはお判りでしょう。ほら、傾けると菫色から薔薇色まで様々な色が混じっています。貴方の瞳と同じく、唯一無二の品です。そう、この船型は美しい雌鶏号からとったもので・・勝利こそ、貴方にふさわしいのですから。今日は観劇ですが、高さなど気にすることはありません。皆、舞台の女優より貴方にくぎ付けです。明日の上演の時には、他の貴婦人がこぞって真似をするでしょうが、この生地ばかりは誰も手に入れられませんからね。くれぐれも頭上の燭台には気を付けて・・どうぞいってらっしゃいませ。

女たちは毎晩訊ねる。もっと美しくなれる?私は流行遅れじゃない?誰よりも私だけが美しくいられる?

勿論です・・勿論です・・真実貴方様だけが・・心から申し上げ・・もう・・・もう沢山だ!
染みだらけの顔を真っ白に塗り、頬は猿の尻のように赤い、星型のつけぼくろはくたびれて剥がれかけてる。お前たちが美しいわけなど無いだろう。髪粉がぽろぽろとフケのように肩に落ちてるじゃないか。何度も仕立て直したローブはダーツが歪んでいる。コルセットを外してしまえば、弛んだ腹が流れ出てくる。

醜悪だ。それを作り出しているのは俺だ。頭に小人の人形を乗せたのも、鸚鵡やサクランボ、船にはマストすらつけた、さすがに骨壺までは入れなかったが。それも全て女たちが望んだからだ。俺は女たちが、口にはしなくとも望んでいるものが判る。たいていの男は、そんなものがあることすら知らない。首の骨が折れそうになっても、燭台の火で頭を焦がしかねなくても、女たちは望む。美しく、美しく、より美しく、誰よりも・・私だけが永遠に美しい。

真の美しさなど、無い。この宮殿だけでなく天上にすら存在しないだろう。茨の冠の後ろには宝石が埋め込まれ、聖職者の裳裾には金糸が煌く。地上の狂騒は天の真似事なのだから当然だ。美など無い、詩人と画家は幻を追っている・・鬘の、女の中には美しいものなど。

 

「酔っておられるようだ」
言われて俺は顔を上げた。この小宮殿の中ですら、殆ど直接話したことのない相手からの言葉が、俺に向けられたものだとは一瞬分からなかった。軍人だから寡黙ということではないらしい。
「この庭の美しさと素晴らしい食事に酔っているだけですよ」
トリアノンに来る前コロンでうがいをした、気づかれるはずはない。浴びるだけ酒を飲んでも、女たちに気取られたことはない。
「ならばよろしいが」
そういって准将は俺が誉めそやした庭を眺めやった。この庭は全く好きではない。雑然として野放図で、俺の育ったあの片田舎を思い出させる。俺は庭を見たくないばかりに、向かい合った女に目をやった。そうだ、女だったな、忘れていた。俺の前で鬘をかぶらないほぼ唯一の女。いや、昔はいた。鬘など知りもしなかったのは母と姉だ。鬘どころか・・古着で譲ってもらった服を何年も擦り切れるまで着ていた。
昔のことなど思い出したくないのに、見せかけの長閑な風景と口の重い軍人を前にして調子が狂う。他の女たちのように、意味のない言葉でさんざめいていてくれたらいい。そうすれば俺は俺でいられる。女たちに相槌をうち、心無い言葉で飾り、仮面を張り付けた俺に。
「・・ひとつだけお伺いしたい」
「どうぞ、何なりと」
「あなたは長年王后陛下に最も近しい。陛下ばかりでなく様々な方々の秘密や心の内もご存じでしょう」
「それは買い被りというものです」
「そのあなたにお聞きしたい、今の陛下はお幸せだろうか」
今度は俺が絶句する番だった。幸福だって?この女は何を言い出すんだ。女たちは美しさと戯れ以外に興味も関心も無い。鬘、宝石、芝居、ギャンブル、恋愛。最先端のローブを身に着ける以上の幸福など知りもしないだろう。幸福など・・幸福。そんなもの俺も知らない。

俺は髪結いになってからおそらく初めて口ごもった。これまでは何も考えずとも、羽のように軽く動いた俺の口がだ。
「トリアノンに籠られてから、陛下への非難は増すばかりだ。だがご家族と穏やかに暮らされている今、陛下がお幸せなのだとしたら・・私は何も言えない」
「私は・・わたくしには」
答えを出せない問を与えられた俺は困惑した。宮廷の会話で解のない謎は嫌われる。一見難解そうな謎かけも、相手の才知を測るためのもので確実に答えはある。真剣な率直さなど宮廷で生きるためには不要のはずだろう。答えに窮した俺は黙り込んだ。
だがその沈黙を相手は答えだと思ったのか、それ以上促すようなことはせず、黙ったまま卓に肘をつき、吹き渡る風を感じて眼を伏せた。俺はその横顔を見て、突然動けなくなった。苛立ちも、焦りも何処かへ行っていた。

 

髪が――自然のままの、結いも染めもしない金色の髪が、風になびく。少し俯いた横顔に、午後の光が当たって目元にプリズムが踊る。睫が僅かに震えている。彫刻家が切り取ったような鼻梁。冬山の新雪の如き白く抜ける膚。こころもち開かれて、今にも細い溜息が漏れそうな口元・・紅い、背後に咲く薔薇の色を映した唇。飾ることなく、塗りつぶし作り変えることなく、ただそこにあるだけ――風のように。風は確かにそこにあっても見えず、捕らえることもできず、何者にも追われることなく、心のままにそよいでいく。

 

俺はしばらく呆然としていたのだろう。准将が立ち上がって暇を告げ、その軽い足音だけを残して去っていくまで。後姿の軍服の裾が翻り、彼女自身が風になったかのように、その後には花弁が舞っていた。

俺も立ち上がり、庭を歩きだした。薔薇が重たそうな花弁を揺らしながら香っている。手に取ると、葉はしっとりして、その下に水が流れているのが感じられる。天から降る雨を大地が吸い込み、一面の薔薇を夏に咲かせる。昔・・そうだ、昔。薔薇を手折って、結婚の朝の姉の髪に飾ってやった。あの日の姉は美しかった、花のように。俺はもう一度、白い薔薇を手折り、花弁が陽に透けて七色に揺らぐのを見つめていた・・いつまでも。

「・・レオナール」
女たちは感に堪えた声で、俺に恋しているかのように見つめる。
「あなたは本当に・・魔術師だわ」
女たちはもう、頭に人形を乗せない。重い宝石の代わりに、羽より軽く薄いリボン。子どものように柔らかくしなやかで、風に揺れる髪をしている。高貴な女がバスケットに薔薇を摘み、幼い娘の手をひいて庭先を歩く。その姿は画家たちが幸福な母子像として描くに足りる。
俺は女の耳元に囁く。貴方様が風に髪を揺らすとき、至上の美がふりまかれます。短く切った髪は、花の香りを吸い込むでしょう。貴方の治めるこのフランスの大地と一体になること、それこそが――永遠の美なのですから。

 

永遠に変わることなく、決して滅びない、美はあるのです。

 

END