記憶

 

懐かしいな。よもや君に会えるとは。少しいいかね、いや時間は取らせない。私もこの後予定が入っている。
・・・ああ、葬儀というのは誰によらず気の重いものだ。その前に、少し君と話したい。後では時間が取れそうにないので。どうぞ、私の客間へ。

 

男が二人、燃える暖炉の火だけを灯りにして、向かいあって座っている。客を招きいれた男は、椅子の背に深く凭れ、暫く黙って顔を上にあげていた。迎えられた男もグラスを手で温めたまま同様に沈黙していた。彼らの間には長い年月の隔たりがあり、その空白を埋めるものは、過去の思い出だけだった。お互いの胸に去来している面影は違っていたが、その顔を思い出すのに痛みを伴うのは同じだった。失った女を想い沈黙する男達。やがて少し年長の男が口を開いた。

「老いるというのは恐ろしいことだ」
そう語る男はまだ初老といわれる年代に差しかかったあたりだろう。権力をもっている人間独特の威圧感があり、髪や爪は入念に手入れされて、身だしなみも非の打ち所が無い。そんな男が口にするのに相応しい言葉とは思えなかった。
「まだ老いを語るには早すぎるのではないですか」
「そうかね、君と会ったのはもう数十年も前だ。そのあいだ・・私は自分がただ老いてきただけだということを、よく知っているよ。私のこれまでの人生は何かを積み上げてきたんじゃない。ただ、来るべき収束に向かって、重い足で歩いてきただけ」
「この国で殆ど最高の権力を握っておられる方の言葉とは思えませんね」
「数十年・・・」
権力者は、向かいの男の返答が聞こえなかったかのように、自分に向けて語り続ける。

「ただ無為に過ごすにはあまりに長すぎる年月だ。あの方を失ってから私は人生を積み上げることを止めてしまった。私が権力を持っているのは、実にそれに執着しなかったからだよ。何かしないと生きている気がしなかった。国家の中枢にいる者の常として、権勢を拡大することを目的としていれば・・何もしないでいるよりはましな程度だと。だが、もうそれも倦んできた」
「権勢も栄華も、あなたの空白を埋めることは出来なかったということですか」
「これほどまでの恐ろしい喪失だとは、考えもしなかった。あの方が処刑されてからずっと、私はただ肉の袋をかぶった物にすぎない。判るかね」
「多少は・・私も絶えず、あの人の手を離したことが心を苛んできました。あの人が火に飛び込むのを止められたはずなのにと・・しかし」

向き合う二人の男を照らしている暖炉の火がはじけ、薪が重い音を立てて崩れ落ちた。
「私はあの人を失ってから、ただ無為に過ごしたとは思っておりません。私は私を愛してくれた妻や両親や兄・・その愛情に支えられて生きてこれたことを知っていますから」
「愛情か・・君が羨ましいよ。私はあの日からそう言ったものを全て切り捨ててきた。愛情が人を生かすものなら、私はあの方の死からずっと死んでいるも同然だった。老いるのが恐ろしいのは・・」

「昔のことばかりが鮮明に思い出されるようになるからだ。あの方の笑い声、軽やかな動き、花の色を映した肌・・そういったものばかりが、こんな夜に思い起こされる。私はこの北の国ではなく、暖かい春のフランスにいる。薔薇の園であの方が微笑んでいる。私も微笑み返して手を伸ばして・・・・ここで幻影は消えるんだ。夢だ。もう決して戻らない。老いて、日毎、過去の幻に捕らえられていく」
「ならば一切を捨てて修道院に入られるべきではないですか。権勢を抱いている限り、敵も増え、いらぬ流血を招かないとも限らない」
「君も私のことはいろいろ聞き及んでいるだろう。私は犠牲者の血の上に立っているとね。王位継承者が亡くなったこの機会に王権を狙っているという噂もある。それもまた一興かもしれん。最高の地位に立てば、この空白が埋まることがあるのかも」
「心にも無いことをおっしゃる」
「権力も一度持ってしまえば、それ自体が枷になるものだよ。どれほど重かろうが、生半可に断ち切ることの出来ない鎖だ」
「重荷なら、少しづつでも下ろされるべきでしょう。このままでは・・」
「危険だとでも?」
「・・・」
「数十年ぶりに会っただけの相手に、そこまで心配してくれるのか」
「貴方は、あの人がかつて愛した人ですから」
「オスカル・フランソワ・・・君の故国ではその名前を口にすることさえ辛かろう」
「ええ」
「稀有な女性だった。何より心性が気高かった」
「恨んではおられないのですか」
「私も彼女も、自らの信念に従って行動したんだ。あの時代、彼女が信じたものがあの方の命を奪い、多くの血を流したが、恨むという事は無い。私はオスカルを信頼していた。あの方も同じだ、彼女のことを語る時はいつも、柔らかい声で ”懐かしいオスカル”・・と」

「そんな日々を覚えておられるなら尚更」
「歳をとるということは、若い頃には考えられなかった年月の膿みを鱗のように重ねていく日々でもある。もうあの時にも、あの時代にも帰れない。今の私は権力という鎧を背負った空っぽの老人だ」
「今の貴方を見たら、あの人は悲しむでしょう」
「そうだろう。彼女は人の為に心から悲しむことを知っていた。その優しい心根が民衆の側に走らせたのだろうが、民衆がそれに値したとは思えない。彼らは愚昧だ!個々人は羊のように大人しくとも、集団になれば血だけを求める獣になる」
「・・フェルゼン伯」
「いや・・すまない。つい憤ってしまって。君にこんな話をするつもりではなかった。懐かしい人に会って昔話をと思っただけなのだが。失礼した」
「いえ、そんなことは」
「そろそろ時間が無いようだ。君さえ良かったらゆっくりしていってくれたまえ。部屋を用意させよう」

権力者の仮面をかぶりなおした男は、手袋を手に扉を出ようとして立ち止まった。背中を向けたまま、半ば独り言のように呟く。

「ジェローデル伯爵、ひとつ言い忘れていた。私が生きのびた意味がただひとつだけあった」
「何でしょうか」
「忘れない為だ。私だけが知っているあの方を決して忘れないように。死者は残された者の記憶の中だけにしかいない。私が死んだら、愛し合った日々のあの方は今度こそ本当に・・・死んでしまう。私が後を追わなかったのは、それだけが、恐ろしかったからだ」
「ならばどうぞ・・・ご自愛を」
「・・ありがとう」

男は振り返らずそのまま扉を出てゆき、そして、二度と帰らなかった。
残された男は故国に帰り、そこで生涯を終えた。
今はもう誰も、その男達の真実を記憶してはいない。

 

END