月読

夜になった。月が薄い雲の陰に途切れ途切れに顔を出していた。

オスカルは屋敷の屋根裏の階に続く細い階段を昇っている。古い木の階段は歩くときしむ。廊下の片側に並んだ扉のひとつで立ち止まり、戸惑った。人のいる気配はあるだろうか・・。小さくノックした。返事はない。扉を押してみると存外に軽く開いた。
南向きの窓にぼんやりした月明かりが映るほかは暗闇だった。部屋の主はもとよりいない。ため息をつく、部屋へ入る、主のいない冷えた寝台に腰掛ける。暫く待ったが誰の足音もしなかった。力が抜け、寝台に倒れこんだ。ここへ来て何がしたかったわけでもない。ただ、ふと会いたくなって。呼び出せば彼は来たのだろうが、自分で探してみたくなった。誰にも彼を探していることを気取られないよう。
寝返りを打って窓の外を見る。月が高くなっていた。彼は帰ってこない。これ以上待っていても仕方がない気がした。彼にあって何をどういえばいいのか、自分でもわかっていなかったから。立ち上がろうとしたとき、月を隠した雲が途切れて、寝台の傍の小さな卓を照らし出した。

暗い部屋の中で其処だけが、光を吸い込むように白かった。小さな卓の上の数枚の白い紙---手紙が。

無意識に手を伸ばそうとして、弾かれたようにその手を戻した。これは彼にきた手紙だ。もう戻ろう、彼はきっと遅い、待っていても当分戻ってこない。立ち上がって扉に向かおうとすると、気まぐれに窓の隙間から吹き込んだ風が手紙を払い落とした。立ち止まって振り返り、手紙を拾い上げ・・・。
オスカルはそのまま立ち尽くした。数秒か、あるいは数分。そうしてもと来た階段を降り、廊下から庭へと続く掃き出し窓を開け、夜露に濡れた庭へと出て行った。風が冷たかった、でも何も感じられなかった。

アンドレが屋敷に戻ってきたのは、月が中空に昇ってからだった。屋敷にいれば顔を合わせてしまうかもしれない、彼女と-彼女の婚約者に。苦し紛れに酔わない酒を流し込んだところで、結局はここへ帰ってくる。どれほど重い心を抱えていても、足はなじんだ厩舎に行き馬を繋ぎ部屋へと向かう。同じ屋根の下にいる彼の幼馴染はもう眠っているのだろう。考えないようにしても、どうしても心が其処へ戻っていく。頭を振って庭を横切ろうとしたとき、人影を見つけ立ち止まった。

空の上は風が強いのか月は出ては隠れ、月光の残像で庭はうごめいているように見えた。その庭の一角に白い屋根の東屋がある。その屋根の影の下、冷たく固い石造りの座に座り込み、オスカルは微動だにしなかった。彼が近づくと伏せていた瞼をゆっくり上げ、正面から見据えた。そしてそのまま二人とも黙り込んでしまう。

「・・・すまない」
先に声を出したのはオスカルだった。
「何が」
「お前の部屋にあった・・手紙を読んだ。」
アンドレが深く息を吸い込んだ。
「あれは・・燃やすつもりだった。誰の眼にも触れないうちに」
「その人に頼まれたから?あの手紙は・・」
「お前は知らなくてもいいんだ、オスカル。忘れてくれ」
---忘れる?でもあの手紙は。小さな紙に少し乱れた字で書かれた短い手紙、あれは・・。

愛しい人。私の愛する人。
私はどれほど貴方を追っていたことか。
貴方の声が聞きたかった。姿が見たかった。傍にいて、掌に触れたかった。
そのすべては昨日までのこと。私はもう貴方の傍にいられない。
私はこれから何処にいても貴方の影を探すでしょう。
見知らぬ人の中に貴方を見つけるでしょう。
貴方の髪を声を微笑んだ表情を、死の瞬間まで忘れることはなくても。

貴方は私を忘れてください。私がいたこと、貴方と出会ったこと、話したこともすべて。
貴方の前から逃げる私のことなどどうか、忘れ去ってください。
さようなら。

思いもかけず眼にした言葉の、深い想いと哀しみが流れ込んできた衝撃。オスカルは首を振った。到底忘れられるとは思えない。
「あの手紙を書いた人は、もうお前の傍にいないのか」
「ああ」
「手紙を燃やして、愛されていたことを忘れて・・生きていけるのか」
「・・人は変わっていく、辛いことや苦しいことは胸の奥に沈め、やがて知らぬ間に消してしまう。その方が幸福に生きられる」
「幸福・・だって」
青い眼が光った。声には怒りが含まれていた。
「誰かの想いを忘れ無かったことにすることで、成り立つ幸福があると本当に思っていると?アンドレ」
「ならば、お前はどうなんだ!!」
強い口調に一瞬オスカルはひるんだ。厚い雲に月が隠れた暗がりの中でも、彼の肩が震えているのが判る。
「忘れられるなら、切り捨ててしまえるなら、どれほど楽だと思う!ずっと行き場の無い想いだけを抱えたまま、生きていくことがどれだけ・・・」
彼はそれ以上言葉を続けられなかった。握り締めていた拳から力が抜け、深く長いため息をついた。
「もう終わった、終わることなんだ、オスカル。お前が心に留めておくことじゃない。怒鳴ったりしてすまなかった」
「・・・」
「風が冷たい、もう部屋に戻ったほうがいい」
肩に置かれた彼の掌はいつもと同じように暖かかった。声も平静に戻っていた。しかしオスカルは眼を伏せたまま動かず、ようやく顔を上げたときは、瞳が濡れて光っていた。
「アンドレ・・もしも」
「どうした」
「お前が誰を忘れても・・私が誰かを忘れることがあっても。私はお前を忘れない。何があろうと・・生涯。一瞬たりとも忘れたりしない」

オスカルは踵を返し、風がやんで月明かりに照らされた庭を戻っていく。途中ふと足をとめ、立ち尽くしていた彼に振り返った。
「あれは・・あの手紙は誰が書いたんだ」
返事はなかった。どこかで見覚えのある字だった・・確かにどこかで。答えない彼を残し、オスカルが再び歩き出して屋敷へと続く扉の向こうへ消えるまで。彼はその背中を見送った。月が傾く頃、ようやく彼も部屋へ戻った。
そして卓の上に小さな銅の皿を出してその上に置いた手紙に火をつけた。小さな炎が暫くの間暗い部屋を照らしていたが、やがて消え。熱を持った黒い灰が冷えて固まり、窓からの風で床に落ちた。

彼はそれを長い間見つめていた。それから卓の抽斗を静かに開けて、小さな壜を取り出した。

---すべては無駄な足掻きだったのか。手紙を書いたことも、それを燃やしたことも。
紙の上の文字のように心が消えることは無い。心を消すことも、お前を忘れることもできない。そして・・お前も俺を忘れない。せめて忘れてくれたら。俺という存在を消して、全く分かたれた人生を歩んでくれたなら。俺は離れることができたのかもしれない。

 

もう何処へも逃げることはできない。
ならば
進むべき道は・・ひとつだけ。

空が白んでゆき徐々に昇る太陽と逆に、月は沈んでいこうとしていた。彼らが次の月を見上げることがあるのか誰も知らない。

 

END