クリスマスの思い出

お前の、髪の癖や背骨の形、ゆっくり息をはくときのかすかな音、心臓のリズム。すべてを知っているのにまだ私には知らないことがある。過去だ。生まれた時始めて目をあけた時、幼いお前の黒い瞳に何が映っていたのか私は知らない。知らないお前があることが不思議で、少しだけ寂しい気もする。私に出会う前のお前は何を見て何を愛していた?今はない父母の元で、一身に愛情を受けていたお前はどんな子どもだったのだろう。
最近そんなことをふと考えるんだ。おかしいだろう。幼い時からずっと傍にいて、全部知っているような気持ちになっていた。でも私の知らないお前がいる。

--故郷は小さな村だった。なだらかな丘の麓に小さな家があった。父と母は、顔も朧にしか思い出せない。母の手の白さや、父が肩に上げてくれたときの、驚くほどの世界の広さ、そのくらいしかもう覚えていないよ。

他には?思い出せない、覚えていない?話してくれ、どんなことでもいいんだ。怪我をして泣いたことはある?夢中で遊んでいるうちに、家が遠くなって不安になったこと。教会の椅子の硬さに退屈になりステンドグラスに当たる光をずっと見ていたことは?石畳の石の数を数えながら、手を引かれて家路を帰っていったこと。なんでもいい。

--まるでお前が見ていたようだな。

考え出すとそのことばかりを考えてしまうんだ。子どもの目で見る世界は広い。お前の見ている光景は私の幼いときのそれとまったく違っていただろう、でも何処かで同じような景色を見たかもしれない。夜に見上げた月かもしれないし、夏に咲く白い薔薇かも。何処かで、私はお前を同じものを見て、同じように感じて・・そうあって欲しいと願ってしまう。

--そうだな、そういえば

何?

--遊んでいて陽が暮れかかると、母が呼ぶ声がする。俺は走って丘を駆け下りていって、そんな時いつも、他の誰かに呼ばれている気がした。日の沈む向こうの空から声が聞こえたようで、立ち止まって振り返ると誰もいない。俺はしばらく佇んだまま、夕暮れの空を見ている。確かに聞こえたのに・・。

誰の声だった、それは。

--誰だろう、懐かしいような悲しいような、沈む陽が声をかけてくれたのかと思っていた。父の後を追うように母が死んだときも、丘の上で語りかけてくれていた。とても大切な何か・・でも、もう思い出せない。

とても大切なことなら、思い出せなくてもお前の心の底に在るのだろうな。そうやって、忘れてしまったはずの記憶が、少しづつお前の魂の形を作っていったんだ。会いたかった、そのころのお前に。

--ああ、ひとつだけ。ひとつだけはっきり覚えている。多分、故郷ですごした最後のクリスマスだ。教会のミサから出てくると、雪が降っていた。帰り着くまでに道は白くなり、道に足跡をつけるのが楽しくて、走って家へ入った。父が続いて入り、母が扉を閉めるその時に聞こえたんだ。驚いて振り返り、母が閉めようとした扉を開け放った。雪は一面に降っていて、足跡さえもう消そうとしていた。その白い世界の向こうから呼ぶ声。あれは・・あれは

お前の声だったよ。

アンドレ

その声だ。

ようやく・・思い出してくれた。
--何故いままで忘れていたんだろう。
もう決して忘れない?
--死ぬまで、いや死んで身体も魂も消えてしまっても、忘れない。記憶だけは褪せないまま残っている。だから。
望みどおり何度でも呼んであげよう。だからもう決して忘れずに私の声を覚えていて。私たちはお互いに消えない記憶を刻み続ける。

 

その記憶がきっと、幼いお前の背中にまで届くのだから。