過ぎし日の光

何故、去っていったのかしら――

 

牢獄の中で繰り返し思い出すあの日。全て失って何も持たず何者でもなくなった私は、冷たく硬い藁の上で思い返している。あの日去っていった彼女の後姿を。

昔、抜けるように空の青い日だった。長い長い馬車の列、村々の沿道で迎える人々。郊外の風景は故郷と変わらないように思え、私は胸が苦しかった。私は遠国にいる、二度と故郷には戻らない。まだ幼かった私の肩に載せられた重圧で圧し潰されそうだった。そして到着したあの森で、初めて彼女に出会った。

フランスの統治者である国王と、未来の統治者である夫に手を取られ進んでいくとき、ふと近衛隊の先頭にいる彼女と目が合った。絢爛で一分の隙も無いほどに飾りあげられた人々の中で、彼女の金髪だけが吹き渡る風にそよいでいた。私は一瞬、肩にある重荷を忘れた。

ああ、まるで昨日のことのように思い出せる。

宮廷での日々は故郷とはまるで違っていた。夫も私も存在自体が公のもので、私自身の感情や意思が入る余地は無い。飽きるほどに繰り返される儀式、咳払いひとつでさえ私の思うままにはならない。ただ近衛として傍近くで使えてくれる彼女を見るときは、心が和らいだ。彼女自身は決して傅く者としての立場を超えることはなかったけれど。
敵国王女への侮りを隠しながら、仰々しく言葉を飾り立てる人々とは違って、彼女の言葉は短く率直だった。私が苛立ちと幼い寂しさから、身分を隠しパリに赴いた時も、彼女は付き従い守ってくれていた。二心のない忠誠と友情。それがどれほど私の心を支えてくれたことか。

軍隊での地位、栄達、彼女が望めば私は惜しげもなく何でも与えただろう。彼女が欲しないからこそ、私は与えたかった。彼女に報い、傍にいてほしかった。氷ほどに冷たく触れがたいと言われる美貌を持ちながら、賞賛も追従も、女と侮られることの侮蔑も全く意に介していない強さ。余人は知らないであろう、心の中に燃える熱い愛情。私はそれが欲しかった。私を愛し応え受け入れてほしい、そう望んだだけなのに――拒んだのは私のほうだった。

女の心が無いのか、私は私をありのままに受け入れてくれない彼女を痛罵した。彼女は私を見上げていた、悲し気に。私と彼女との間に、立つ床の高さの差よりも大きな断絶があった。その日はヴェルサイユに陽が落ちるのが早かった。紅い空に、ひときわ大きな赤い月が昇る。流した涙の血の色のような・・それは誰の涙、誰の血だったのだろう。

それでも彼女の忠誠は変わらなかった。彼女と私の間に隔てがあっても、彼女が離れていくことはない。何故なら私が王妃だったから。私は初めての恋を知り、美しい年上の友人-その時はそう信じていた-もいた。世継ぎが出来ないことの嘲りも、心を通わせようとしてままならない夫との仲も、恋と享楽で忘れようとした。そしてその間、彼女の碧い眼に悲しみがあった。彼女の声を聴こうとしない私への。

近衛を辞める、私の傍から離れる。そう請われた時心から驚いたけれど、いつかこの日が来るかもしれないと判っていた。最初は小さな溝だったはずが、気づけばあまりにも深い谷になっていた。私はそれでも、どうしても訳を知りたかった。どうして離れていくの、何処へ行こうとしているのと。

離れていく人は何も語らない。皆、気づけば手から零れ落ちている。零れる砂を掴もうとして、全て失くしてしまった。

――軍をお引きください。
膝まづく彼女の髪が風に揺れている。
――王家と国民が争うことなどあってはなりません。
髪が揺れ、夕陽に彼女の片頬が染まっている。
――どうか、陛下。

あの時、引き返せばよかったのかしら。深い断絶など乗り越え、歩み寄れば。私は今日とは違った場所にいたかもしれない。彼女を永遠に失わずに済んだかもしれない。心からの、ただ一人の、信頼できる友を。

私はあの日から失っていった。友人も夫も恋人も子どもたちも。今の私には何ひとつ残っていない。
どうして此処には誰もいないの。寒く暗い、処刑の朝を迎えようとしているこの日に。誰か・・誰か答えて。私はひとりぼっちで死ななければならないの。塔の下から、私の死を願う声がする。皆が私の死を望んでいる。打ちのめされひとり老いた、力のない女の死を。

 

死にたくはない

生きたい
生き続けたい

私がどれほど罪深くとも

誰のためでもない、私自身のために。罪を贖ってもう一度失ったものを取り戻したい。このまま消えていきたくはない。ああ、誰か・・お母様、陛下・・・オスカル。

オスカル、貴方は・・逝くとき辛くはなかった?苦しくなかったのかしら。命が消えるとき、何を見たの?それは救いだったなら、そうであれば。私も知りたい・・どうやって・・。

 

ああ、眠っていたのね。空が白んでいる。とても静かだわ、何の音もしない。高い窓から、陽が射しこんでいるだけ。暗い塔に差し込む光が、朝が――美しい、風が吹き抜ける。遠い国に辿り着いたあの始まりの日、光も風もあの人変わっていない。世界の美しさは、何一つ損なわれていない。
十字を切って跪き首を垂れ祈る。そう、この時間こそが祝福なのだ。気づけば、気づきさえすればこの瞬間はある。神の手のぬくもりを感じて、委ねることの幸福が。

たとえ全て失ったとしても、思い出だけは奪われない。美しく強かった人のことを思い、最期まで俯かずに歩もう。目覚めた鳥がはばたく音がする。もうすぐ足音が近づいてくる。私の最後の旅・・扉が開く。

 

 

END