物語の始まり

さて、物語は終わる。彼らの長い物語。生まれ、出会い、愛し合った。

 

生まれたのは互いに遠い土地だった。彼は一つしか暖炉のない小さな家で。彼女は三十九の廊下と九十七の部屋と千の燭台の下で生まれた。彼は夏、彼女は冬。

生まれたばかりの子どもは皆似ている。まだ目は見えず光だけを感じ、己が高らかに上げる泣き声だけが世界の全て。産湯につかり包まれ、ようやく人の手の安寧を知る。母親の腕の中が安らかなことも。

彼らは走る。背後の母親の声が届かない場所へ走り出そうとする。少年は丘の先にある小川で魚を捕まえることに、少女は庭の灌木の隅で小さな蝶を追うのに夢中だ。夕暮れに彼が家に帰るとそこに灯りが無かった。少女は蝶を逃がしてしまったことを悲しんでいた。

彼は永遠に続くような馬車の旅を終えた。彼女は館の窓から馬車が来るのを捜していた。それは春の午後で、広間には光が差し込み階段を下りてくる少女を照らしている。彼は古い扉が背後で閉まるのを聞き、心と眼が金色の陽光で満たされるのを感じていた。

彼らは初めて馬で遠出をする。館は後ろになり小さくなりもう見えない。彼は森にある木の実を知っている。彼女は馬の喜ぶ水源を知っている。二人でいれば、森で暮らすことも出来るだろうと笑い合う。彼らは子どもの時代がもうすぐ終わることを知らない。

雪を投げ合って遊んだ日々が変わった。彼女の手には剣が、彼の手には手綱が。肩章の房を揺らしながら馬車に乗り込む少女、それに続く少年は伸ばした髪を紗の布で結んでいる。何処へ行くにも一対の彼らは主人と従者でありながら親友だった。少なくとも彼女の心の中では。

麻の葉が伸びるより早く、彼らは大人になる。彼女は肩に乗った重責を感じて、彼はその重荷の一端を担おうとして。彼らは己自身のためでなく、人のために大人になろうと誓った。まだ彼らの腕が細く、骨は軋みながら成長している頃だった。

彼らは未だ一対だった。もう少女と少年ではなく、光を含んだ金糸雀色の女性と夜に沈む黒檀の男性となっていても。彼女が振り向けばそこに彼がいる、それは二人にとって瞭然とした真実。

やがて成長ではなく成熟になり、彼らの中では新しい何かが芽生えていた。お互いに手を伸ばせば届く位置にいて、しかしその距離が怖れによって隔てられていた。左肩と左眼に負っている傷がまた開きはしないのかと、彼らは互いのために怖れていた。

俯いて声をたてず嗚咽する彼女の肩に絹の上掛けをかける。打ちのめされ血を流した彼の肩を抱いて名前を呼ぶ。傷つけたくない、失いたくない。お前が前へ進むだけで、お前が生きているだけで、それだけでいいから。どうか失わせないで。

彼の手が彼女の左肩に触れる。彼女の指先が彼の白く濁って潰れた左眼をなぞる。それでもまだ彼らの間に壁があった。求めあう心とは裏腹に、失えば生きられないという重さが彼らを隔てていた。太陽と月、光と影が、同時に存在しながら溶け合えないように。

そして点々と紅い染みが。絨毯の赤褐色に紛れ、鮮血は掌だけに痕をつけた。光あふれる回廊の明るさが蝕まれ、彼は沈黙する。終局が近いと、瓦解が雪崩を打って押し寄せてくると、悟ってもなお、触れずにいられるだろうか。

彼らはノイラートの船に乗って進む。戻ることも寄港することも無い船、船上には二人だけ。
彼らを隔てるものも阻むものも無く、触れて抱き合って口づけする。光と闇が溶けあい、国という河は濁流になり、彼らを飲み込む。

 

そうして物語は始まる。彼らの命が消えたその瞬間から、羊皮紙に最初の文字が刻まれる。愛の成就によって世界は崩壊し、

また、始まる。