沈黙

「彼を傷つけたくないんだ・・」
眠っているのか目を閉じたままの彼の顔に、痣が広がっている。切れた口元はまだ血が滲んでいた。
「私の傍にいるだけで、傷つく」
オスカルは薬を浸した布で、アンドレの手の甲をそっと拭く。拳で殴った骨の周りが赤く擦れていた。
「女に惚れて、傷つかない男なんているかよ」
アランはアンドレの顔を覗き込んだ。頬の擦り傷の横にうっすらと涙の跡があった。
「女もそうだろ」
「私が?」
「他に誰がいるんだ」
「そうだな・・」

彼が傍にいるのは当然だった。二人でいることに疑問を持ったことも無かった。振り向くと必ずいて、背を追い越された時は悔しかった。そんな幼い記憶さえ、今は痛みを伴う。苦しめたくないから、距離をおこうとした。でも私は間違っていた。離れられるはずなど無い、彼はそれを知っていたから、傍にいて血を流し続けることを選んだのだ。

「女も傷つく。傷の塞がる時間もないくらいに。それでも・・離れたりなどしない」
「分かっているならいいさ。あんたも、命がけで愛されて怯むような女じゃあるまい」
「命がけ・・か」
アランが片手を振りながら出ていった。陽が傾いて、西向きの窓を照らしている。寝台に十字の窓の影が落ちていた。オスカルはアンドレの手を両手で包み、十字の影に祈った。

 

どうか。彼の痛みを私に移してください。私はどれだけ傷を負ってもいい、血だまりの中で息絶えてもいい。彼が命を賭すというなら、代わりに私を。彼の傷を私の命で贖ってください。彼が私の傍に、私が・・彼の傍に永遠にいられるように。

 

鳥も眠る夜に、祈りの声だけが響く。沈黙の祈りは夜の底に沈み、朝の光と共に空へ上がる。何処へ行くのか、届くのか誰も知らない。

 

END