世界が明日終わるとしてもー17

旧い木の椅子が割れて転がってる。扉は歪んで閉まらない。足元には木の破片や色とりどりのガラスの欠片。吐しゃ物の臭いが鼻をつく。アンドレは屈みこんでガラスの破片を手に取った。
「アンドレ、ここはまだ危ないのに」
破壊された椅子の欠片すら踏みつけたくない様子で、足元の木片を避けながら神父が入ってきた。
「少しでも何かあればばと思ったのですが」
頭上を見上げると、割れた窓から小雨が吹き込んでいた。
「もう・・何も残っていない」
アンドレが手に持っている破片は金に近い黄色で、いつも見ていた像の髪の部分だった。
「アンドレ、私達は近々パリを離れます」
「それは、お辛いでしょう」
「この教会を捨ててゆくのは、身を切られるようです。出来ることなら身を半分にして置いてゆきたい。しかし子どもたちは・・あの子たちを守るのは私しかいない」
神父も屈みこんで、足元の破片を拾った。
「私の師は、この教会の前任者でした。師は子どもにこそ神の御教えが深く現れているのに、貧しく親が無いというだけで教会からも遠ざけられている。何よりも守るべきは子どもたちだと」
神父は十字架にかけられた青年を見上げる。荒れ果てた中でそれだけは無事だった。
「私は子ども達を守らねばなりません。躊躇っている余裕など無い。伝手があります、ノルマンディの古い修道院跡に移れるはずです。伯爵からご援助いただけるので、準備ができ次第すぐ発ちます」
「寂しくなりますね。フランソワには後で挨拶に」、
「・・私達と一緒に行きませんか」
「私は・・」
「あなたの眼のこともある」
「ご存知でしたか」
「時々、手で探りながら歩いているでしょう。眼を押さえているときも。カフェのご主人は心配でしょう。しかし自身のことも考えなくては」
「お気遣い感謝します。ありがたい申し出ですが」
「まだ・・離れられませんか」
神父がアンドレに手渡した欠片は、鮮やかな碧い色だった。時代を経た古いガラスがこれほどに色を保っていたことに、彼は驚いた。それを握りしめると掌に血が滲んだ。

 

五月に熱狂を持って開催された三部会は紛糾していた。国王には積極的な改革の意思がなく、ネッケルは冗長な演説に終始した。議事に入るどころか議決の方法すら決められず、選挙前に各地で起草された陳情書は捨て置かれている。熱狂と期待が高かった反動による失望が、強い怒りに変わるのに時間はかからなかった。

「オスカル、起きていていいのですか」
「呼び立ててすまない、ジェローデル。手紙に書いたことは・・」
青褪め痩せてはいたが、オスカルは部屋着ではなくジレを着て椅子に座っている。
「王妃様に謁見するお時間をいただけました。明日にでも」
「ありがとう、手間をかけた」
「いえ。ただ、急がずともいいのでは」
「今の状況では、数日や一日の遅れが命取りになる」
「それほどに逼迫していると」
「お前はそう思わないのか」
ジェローデルの眉間に皺が寄った。日を追うごとに状況は悪化しこそすれ好転していない。議会はほぼ分裂状態だった。
「王妃様に対して拍手も歓声も起きなかったと聞いた。このままでいいはずがない」
「ご多忙ですが、貴方の名前を出したときはお声が柔らかくなられました」
窓にあたる午後の日差しが眩しく、オスカルは目を細めた。19年前、あれも五月だった。空は晴れ渡り春の女神が祝福していた、あの年。
「あの方は出会ってからこれまでずっと、変わらず信頼と愛情を寄せてくださった。私も信頼に足る臣下であろうとした。だからこそ・・」
「・・・オスカル」
呼ばれて窓の外に向けられていたオスカルの視線が戻った。少し伏せた目元が揺れている。
「アンドレの・・ことは」
「・・まだ、なのだろう」
オスカルは立ち上がり、足音も立てずゆっくり窓辺に近寄った。
「判っている、パリだけで何万の人間がいることか。しかもパリにいるとは限らない、フランスのどこか、いやこの国にいるという証拠すらない。大海に一粒を探すようなものだ。判っているのに・・」
「彼が・・貴方と遠く離れた土地にいられるとは思えません」
「何故」
「私と逆だからです。私なら、逃げる。弱い男ですから」
ジェローデルは小さく寂しげに笑った。

 

―――パンドラの箱の中にひとつだけ残っていたのは希望だった。パンドラは罪を贖うためにその希望を解き放った。それがどれほど罪深い行為か気づきもせずに。希望があるから諦めきれない。いつまでも・・いつまでも、万にひとつの可能性にしがみついている。

ひとりになったオスカルは、小卓の引き出しから小箱を取り出した。浮彫のある蓋を開けると、碧い光が夕刻の残映に照り映える。
「もし・・希望があるならば、仄かな微かな望みでもあるなら・・」
ひんやりと冷たい腕輪を取り出し、左手にかける。金と石以上の重みが手に感じられた。

 

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