世界が明日終わるとしてもー18(改訂)

コルセットの紐を締める。シャツの袖に腕を通す、靴下を穿く、キュロットの釦を留める。そして、青い軍服を手に取る。自重が伝わった。肩章の房はこれほど重かっただろうか。オスカルは一瞬躊躇したが、そのまま肩にかけた。身支度はいつもひとりでする。硬い軍靴の重みを感じさせないように廊下を歩く。扉が重々しく開けられると、外の陽光が眩しかった。

その日、王妃は宮殿にいた。離宮の小さな部屋ではなく、百年の澱みを感じさせる宮殿の一室で、王妃は赤い天鵞絨の椅子から立ち上がった。
「オスカル、こちらへ」
声は変わっていないように思えたが、顔を上げ見つめた王妃の頬は以前より細くなり、眼の影も濃い。
「王妃様・・・・」
オスカルは喉の奥が詰まるのを感じた。これから話さなければならないことは、この難しい局面で重圧を背負っている女性にさらに苦境を強いるものだ。

「お判りになっておられると思います。しかしそれ以上に王家は危機に瀕しています」
信じていないものを理解するのは容易ではない。ましてや、それは目に見えないのだ。信仰と同じように。オスカルが王妃に掛けた言葉は少なかったが、重みがあった。
「王家が自国の民を信じられないのでは、国の根幹が揺らぎます。国民との断絶は何としてでも防がなくてはなりません。勇気をもって鎌を持つ民衆に語り掛けるべきです。このままでは――」

王妃は暫く沈黙していたが、立ち上がり庭園を見下ろす窓に向き合った。
「・・貴方の言うことは判りました。しかしそれは杞憂です、今パリには各地から軍が集結しています」
王命のもと、集められた軍隊は三万にも及ぶという。
「ルイ王朝は不滅です。それが陽が西に落ちるのと同じ神の摂理であることを、民衆にも知らしめなくては。フランスとは、国とはすなわち王なのです。王が民の前で膝を屈することなどあり得ません。これから軍と民衆が対決することもあるでしょう。オスカル、貴方が軍に戻るというなら・・」
決意をあらわにした王妃の横顔に、夕暮れの赤い陽が照り映えている。
「頼りにしています。今は軍と王家が共に戦わなくてはいけない時期ですから。ジャルジェ将軍も奔走してくれています」
オスカルは顔を伏せた。王家と軍、そこだけにフランスがあるのではないと、答えることは出来なかった。

 

今日も広場の中央で扇動者が演説していた。アランは歩きながら、男の叫ぶ話を耳に挟んでいる。曰く、王は敵国の使者である王妃や、権力に妄執する貴族の意のままになっている。事態を打開できない王に変わる新しい指導者が要る、諸外国の干渉を排し、フランスを今一度輝かしい国にするために、新しい王を。
アランは首を振った。権力が入れ替わったとしても、小麦の高騰が終わるはずもない。しかし何人かの男が演説者に同調するように声を上げ、集まった群衆も煽られているように見えた。
アランが広場を離れようと路地に入った時、ふと立ち止まった。先ほど演説者に賛同していた男の一人が軍人に何かを渡している。青い軍服の男は受け取ったものをすぐに懐に入れ、足早に立ち去った。それが衛兵隊の軍曹であることをアランは知っている。彼は踵を返し、行き先を変えた。

 

「ジェローデル様、ご報告が」
「彼のことか?」
“彼”の捜索をしているのは、ジェローデルに長く仕える従僕だった。多忙を極める主人に替わり、市中を探索している。
「いえ、そうではなく。先ほど使いがありました。ジャルジェ准将が軍に復帰されると」
「・・・オスカル、貴方はやはり」
ジェローデルは椅子に沈み込み、首を垂れた。自ら火中に進んでいくオスカルを、ついに止められなかった己を責めて。

「金だと」
「A中隊にな。口止めされてても、酔うと口の軽くなる奴はいる」
「俺たちの隊はないよ。ダグー大佐が目を光らせているし、そもそも金を受け取って部下を買収するような軍曹がいないから」
呼び出したフランソワとジャンから聞いた話は、アランが危惧していたとおりだった。誰かが軍の内部を突き崩そうとしている。それは誰だ?どこまで亀裂は広がっている?
「俺たちは食うために軍に入って忠誠なんか無いけど、汚い金で動く上官に命を預けたくはない。裏切り者は土壇場になれば部下なんて簡単に捨てる」
「でも今のパリはいつどんな事態になるか判らないよね。クズみたいな命でも、理不尽な命令は受けたくないな」
「お前らはクズじゃねえよ」
自嘲するジャンの頭を小突いたアランに、フランソワが向き合う。
「アラン、隊長が戻ってくる」
「・・そうか」
「アラン・・」
「判ってるさ・・」

 

硝煙の匂いがする。隊列を組む軍靴の音、一斉射撃の響き。戻ってきた、いるべき場所に。
ノックの音とともに副官が司令官室に入ってきて、オスカルに敬礼した。
「隊長、よく・・お戻りになられました」
実直な老士官の眼が揺れていることにオスカルも気づいた。
「ダグー大佐、長い間すまなかった。早速だが調べてほしいことがある」
「はっ」
ジェローデルから言伝られた話も含めて命令すると、大佐は出ていった。オスカルはあらためて窓に向き直り、陽光眩しい外を見渡す。そこへ再びノックの音がした。
「入れ」
「アラン・ド・ソワソン、本日より復帰いたしました」
「戻ってきたか」
「はい、隊長と同じく」
「そうだ。私もお前も・・」
外を見つめたオスカルの横顔が、青白く細く壮絶に美しい。雨の日に会ったオスカルはただ儚く消え入りそうだったが、今は違う。

「あるべき場所で、すべき事を為さなければならない」

 

 

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