世界が明日終わるとしても-19

夜半、アンドレは店を片付けていた。店外に出している椅子には毎日のようにビラが絡まっている。それは増えることはあっても減ることはない。最近は広場だけではなく、店先でも道端でも人々が集まり話し込んでいる。ある者は激高し、別の者が扇動する。巴里の空気に火薬が充満しているようで、いつ火がついてもおかしくなかった。
「アンドレ、もういいから先に帰ってやれ。あの子が心細いだろう」
教会の子ども達は、大家の厚意でアンドレと同じアパルトマンにいる。むろん伯爵の援助は大家にも届いているが、目立つことをすればまた暴力が降りかかれないとも限らない。怯えた子どもらは、移り住む準備が整うまでひっそりと暮らしていた。
「ありがとうございます、これだけ片づければ」
彼が集めたビラを捨てようとして零れたものを、店主が拾い上げた。
「平等か」
紙には扇情的な絵も糾弾する文言も無く、ただ月桂樹の葉と、大きく自由・平等・博愛とだけ書かれていた。今日広場で演説していたのはアンドレもよく知っている男だった。
――君達が貧しいのは君達のせいではない、しかし王の責でもない。無駄に繰り返された戦争のせいだ。そのような戦争は君主のためにある、ならば君主など必要ないではないか。皆が参加してこの国を動かせばいいのだ。
「変わったことを言う男だったな。王もいない、貴族も平民も無い。皆が生まれながらにして平等で、皆で国を作ると」
「海の向こうになら、あります。新しい国が」
フランスにそんな波が来ても俺は溺れるだけだなと、店主は弱々しく笑った。アンドレは肩を落としたその背中を見ながら、ベルナールの言葉を反芻していた。

民衆が作る国、そうなれば貴族と平民という壁は無くなるのか。人を絶望させるに充分な、あの強固な壁が?見届けたい、目が見えなくなったとしても、新しい国ができるなら見えない眼で見ていたい。だからせめて祈らせてくれ。希望の持てる国を・・・・お前の幸福を。
空を見上げているアンドレの耳に、鐘の音が響いてきた。ノートルダムの鐘の音が、夜の闇を裂いて何度も鳴り響く。

 

フェルゼンは天鵞絨の椅子に座り、手紙を広げていた。クエリー神父から、遠からずパリを離れてノルマンディーへ移ること、アンドレも誘っていることが繰り返す感謝の言葉と共に綴られていた。読み終えた手紙を卓に置き、彼はグラスを手に取った。
不変と思えた彼らの絆も、離れていくのだろうか。愛の中で藻掻いていた時、北の星のように彼らは一点の希望だった。私とあの方も二人のように結びついていられたら、そう願っていた。それすら・・グラスの中身を一気に煽った時、鐘の音が聞こえた。フェルゼンは立ち上がり、雨の降りだした窓の外を窺う。鐘の音は何時までも鳴りやまなかった。

 

幼すぎる王位継承者の死によっても、事態は一刻も止まらなかった。簡素に行われた葬儀の後、議会はなおいっそう紛糾した。睨み合う僧侶貴族議員と平民議員との緊張は警備を困難にし、オスカルは多忙を極めた。
「隊長、皆配置につきました」
「アラン、昨日民衆と小競り合いになった時の隊員はどうした」
「休ませたかったんですが。交代の人員が足りません」
「・・・わかった。無理をさせるが、もう暫く堪えてくれ」
そう答えるオスカルの横顔こそ青褪めている。最近は急に俯き口に手を当てて咳き込むこともあった。アランは体調を尋ねたかったが、今のオスカルは研ぎ澄まされていく刃のようで、近寄ることすら憚られた。
――あいつがいれば違っただろうか?
指揮を執るため、馬の首を向けたオスカルの背中は、降り出した雨で濡れそぼっている。
――アンドレ、お前何処にいるんだ。あんな・・隊長を置いて何処へ。
その夏、昨年からの天候不良に凶作が続き、民衆は飢え憎悪はいや増していた。

 

オスカルは軍務の合間を縫って弔問の為宮殿に来ていた。王妃は憔悴し、訪れる貴族の少なさと葬儀を上げる費用すらままならなかったことを嘆いていたが、それでも首を上げていた。
「今は耐えねばならない時です。王朝はこんなことでは揺るぎはしません。臣民は王家があってこそ、存在するものなのですから」
その声は細かったが、断固とした信念があった。

謁見を終えて歩く宮殿が閑散としていることに、少なからず驚く。嘗てここにいた何千何万という貴族達。王を守り戦うために選ばれた者となったはずの人々は何処へ行ったのか。オスカルが考えながら歩いていると、聞き覚えのある足音が近づいてきた。
――王家への忠誠を忘れない者も確かにいます。ジャルジェ将軍は集結した軍の指揮を執る為、不眠不休で働いてくれています。
王妃の言葉が耳に残っていたが、オスカルは足も止めない。鏡の廊下で父と娘は沈黙したまますれ違い、眼を合わさなかった。

「このままでは三部会は瓦解いたします。今、手を打たねばなりません。国王陛下」
「ジャルジェ将軍もブイエ将軍も、出動の準備は出来ていると」
「しかし・・・それでは」
「陛下」
涼やかだが強い声が響いた。座して議論していた男たちを睥睨するように見渡し、王妃は胸を張っている。
「国をあるべき姿に戻すのです。負けてはなりません、歴史は王が作るものです」
そしてその日、衛兵隊に議場閉鎖の命令が届いた。

 

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