楽園のサロメ

素足、というならば。絹靴下に包まれ靴に押し込まれた足は、歪められ取り繕われたものだということになる。生まれてすぐ布で全身をくるまれ、初めて大地を踏むときは、もう靴を履いている。

エデンは遠い。神に似せたアダムも肋骨から生まれたイヴも、裸足で土の上を歩いた。湿った黒土に踵は濡れただろう。柔らかい草は踝に傷をつけることも無かった。
しかし石畳は裸足で歩けない。宮廷の中で生きる為にも、皮や絹で作られた靴は欠くべからざるものだ。素のまま、生のままのものは何であれ忌避される。天を衝くほどの鬘、膚の色が判らなくなる程の化粧、刺繍で重いジレ、扉を通れないローブ。人の業が楽園を遠ざけていた―――

 

小指は小さく桜の実のようだ。人差し指から薬指は真っ直ぐにのびて、冬の霜柱に似ている。大地を踏みしめ、馬の腹を蹴って駆けるための親指は、鍵盤の象牙の如く力強い。甲は丘陵のように滑らかで踝から向う脛へと続く。脹脛は薄い脂肪の層の下に、躍動する筋肉がある。陽に晒されたことのない太腿は、血管が青く透けて見える。

幼いころ、川で遊んでいた。靴も絹靴下も脱ぎ捨てて、水に入るその足の白さに目を離せなかった。藻を撥ね、魚を捕らえようと手を伸ばす。銀色に光る魚の背、水が足の周りで渦になり、飛沫が上がる。夏の午後の光を浴びたのびやかな手足。あの場所こそが楽園だった。

太腿の裏側、臀部から張りのある膚が続く。指で押さえると弾むようだ。足の付け根から膝の裏へ唇で痕をつけていく。脹脛の硬い筋肉が弛緩して投げ出されている。足首から踝と踵への曲線。その全てを辿りながら、足の爪を口に含む。手に取って見下ろす素足は、草原を走るしなやかな獣を思わせた。裸の肢体が絹の上で捩れている。眉を寄せた表情も熱い声も、生まれた時には備わっていなくとも、飾らない生のままの彼女だ。貴族の生まれ、宮廷での地位、軍人であること、全てを取り払い、素の彼女自身に戻っていく。

 

エデンに蛇が入り込んだ時、初めて彼らは他者の視線に触れたのだ。柔らかな繭の中で、己が何者であるかも知らず、ただ戯れていた。其処へ異質なもの-他者が入り込み、彼らは自身が何であるかを知った。それ以来、絶え間なく他者の視線に晒され干渉され、束縛され阻まれる。それが楽園を追放された人間への最大の罰だ。

しかし人の歴史の中で稀に、ごく小さなエデンを作り出す者がいる。人の業を超え、お互いだけを眼に映し、窮屈な靴を脱いで愛し合う者達。

―お前の美しいところに全て口づけしたい
――ならば私はお前の魂に口づけしよう
そう言って、紅い唇を恋人に重ねる。
――お前の口に、口づけしたよ

笑い合って身体を重ね、髪へ、睫へ、鼻筋へ、唇は勿論、鎖骨の窪みも背中の小さな黒子も、肩に引き攣れた傷跡も、右足の小指の爪、膝の形にすら、美しさを讃えながらキスをする。

 

朝になり、将校と軍人の顔をかぶれば消えてしまう楽園。素顔も素足も平穏も無い世界で、戦う。お互いがお互いだけを見つめ、他者に断罪されない日がきっと―――やってくることを信じて。

 

end