生まれた時の記憶がある

 

最初に目に入ったのは、黒くて大きな塊。何度か見ていると、少しづつ視界が明るくなって、黒いものは焦げ茶色になった。顔を動かすと、薄暗い中に細く開かれた明るさがあり、そこから眩しい青が見える。

目にしたのは、太い天井の梁だった。その下で板窓が上に開かれ、朝の空が見えていた。最初に手に抱いたのは母。頬は上気して、乱れた服から肩の線が見えた。次に抱き上げた父は泣いていた。首をそっと支えて、湯につけた。

梁や板窓、母や父の顔も、後から知ったものだ。だからこの記憶も、幼いころから何度も反芻し、思いこんだものかもしれない。大きな梁も、板窓も、八歳で離れるまでは常に眼前にあったのだから。

母はよく寝物語に聞かせてくれた。生まれた日、明け方近く急にそれはきた。父が驚いて産婆を呼びに行こうとしたが、間に合わないことが母には判った。父がずっと母の手を握っていたと。産声が上がった時、母よりも父が泣いた。最初で、そして最後の子ども。それを取り上げたこと、生きた小さな命が手の中にあることに、大きな安堵と不安があったと。

その父が病に倒れた。ひとつしかない暖炉が赤々と燃え、母は寝台の傍から離れなかった。風に窓板が揺れ、暖炉の火が小さくなった。くべた薪の爆ぜる音を聞きながら、遠い昔にこの音を知っていると思った。まだ幼い子どもだったのに―――

 

 

冬の暖炉、薪の爆ぜる音を聞いていると、生まれた日を思い出す。まだ目も開いていない赤子だった。それでも、嵐の夜の暗い部屋でも、世界は眩く私は驚いて泣いた。私をこの世に出現させた手のぬくもりとは別に、身体の左側に熱を感じた。あれが初めて感じた火の温度。きっと生まれる前から知っていた。夜に暖め、獣を遠ざけ、雷と共に森を焼き、新芽を芽吹かせる、火の記憶。

しかしそのことは長い間忘れていた。思い出したのは、ひとつ年上の少年と、馬で丘の向こうまで駆けた日。冬が近く風が乾いていた。彼は小さな石で火種を散らした。最初に枯れ葉、小枝、魔法のようにオレンジの炎が広がる。いつも上手くいくとは限らないけど、そう言って彼は風に揺らぐ火を手で囲った。消えそうだった火が、再び燃え上がり、彼の指の間で揺らめく。

それは私も知っている。火に手をかざすときの熱、揺らぐ火が今にも指を焦がしそうで、恐ろしいけれど手を離せない。小さな火が広がって、草を焼くときの匂い。焔の色彩が目を焼く。そして、火を見ていたのは私ひとりではなかった。誰かが傍にいた、火の熱ではなく、その人が傍にいることが――ただ、暖かかった。火に手をかざし、近づきすぎて熱くなる。掌の皮膚が燃えてもいいから・・もっと、もっと、火に。自ら興す熱風に揺れる、小さな悪魔に触れたい、捕まえたい、傍らにいるその人を、離したくない―――

どうしたの?そう声をかけられて、我に返った。彼が小さく包んでいた火はもう消えかかっていた。人に話せば、それは何処かで寝物語に聞いた話だよ、と言われるだろう。だから誰にも言わなかった。でも、もしかしたら、彼に訊けば・・。

生まれた瞬間に感じたもの、世界の眩しさ、温度、声、風。彼も覚えているかもしれない。暖かく秘密めいた場所で眠る、その前の記憶も。生まれる前、きっとお前が傍にいたと思う。そう話したらきっと・・・微笑んで、答えてくれる。

私の頬を包んで、抱きしめて、耳元で。

 

 

―――生まれる前から知っていたよ。

 

END