美しい子ども

私は美しくない。

 

幼い時の鮮明な記憶は、母の膝に肩をのせ、その細い顎の線を見上げていたことだ。母は小さな本を手にして、私に読んで聞かせてくれていた。母を独占できる時間は限られていたので、私は膝から離れまいとドレスの端にしがみついた。見上げる横顔は白く、控えめに紅を引いた唇は花の色。綺麗というのはこういうことなのだろうと、見つめることに夢中で、読んでもらった内容は覚えていない。

それから私の下に妹が生まれた。貴方の妹よ、と上気した頬の母は嬉しそうだったが、しわくちゃの赤ん坊が可愛いとは思えなかった。それでも成長して少し話すようになると、小さな子はそれだけで愛らしかった。
翌々年、また妹が出来た。母の部屋から出てくる父は厳しい顔をしていたが、私が部屋に入ると母は、可愛い妹にキスしてあげて、と愛し気に赤子の頬をそっと撫でた。
部屋で毬を転がす私達を見ながら、母が時折寂しげな眼になっていたことを覚えている。そういう時私は駆け寄って膝にしがみつく。優しい手で髪を撫でられ漸く安堵した。

ある年、母がいなくなった。身体の具合がよくないので、暫く南で療養する。そう聞かされ、夜こっそりと泣いた。母の椅子に座って、残り香に浸っていた。数か月後帰ってきた母は、ゆったりしたドレスで馬車から降りた。冬になろうとしていて、ドレスの肩に雪が降りかかっていた。

母の頬はますます白くなり、医者は頻繁に訪れた。その日、朝は薄日の下に風花が舞っていたが、昼過ぎには大粒の雪になり、夜は風と雪が渦を巻いた。
近づいてはいけないと言われた母の部屋の近くで私はうずくまり、ばあやが優しく声をかけても頑として動かなかった。難しい顔をしている医師、侍女たちの沈んだ表情。朝から途切れ途切れに聞こえていた母のうめき声は、夜になっても止まらなかった。母はもう部屋から出てくることはないのではないかと思えた。

風がうなり窓を揺らす。その音は魔王の足音のようで、堪えきれず立ち上がり、母の部屋にかけ寄ろうとした、その瞬間。ひときわ大きく高い声が響いた。それは母の声ではない、誕生の、今生まれたばかりの人間の、力強い叫び声。
私は開け放たれた扉から、こっそりと母の部屋に入った。父が見たこともないほど高揚した顔をして、生まれたばかりの赤子を手に掲げている。 ばあやはぶるぶると震え、母は・・目を落としていた。 そして私は初めてあの生き物を見つけた。

私は茫然として、父から悲嘆を浮かべた母に渡された子を見つめていた。泣き声を上げている赤子が、世界の中心であるかのように、私を引き付ける。先の妹二人とも、いや誰とも違うと、ひと目見て判った。これには、何か全く知らない、全く違う力がある。まだ母の腹から出てきたばかりの人間に、私は気圧された。その正体が何か幼い私には判らなかったが、すぐに知ることになる。その子は美しかったのだ―――比類なく。

私達五人の姉妹は、ことあるごとに誉めそやされていた。白いモスリンのドレスを着て並ぶと天使のようだと、来客は目を細めた。父に似ている者、母に面差しが近い者、それぞれいたが、末の妹は明らかに私達と違っていた。濡れた長い睫毛を揺らして、ひとたび碧い瞳が開かれると、誰もがその瞳に見入った。

赤子は一日ごとに成長する。立つようになり、歩いて走り出す。ドレスではなくキュロットを穿いた末の妹の後姿を、母が見守っている。その眼差しに一抹の寂しさを見て、私は胸が苦しかった。母の嘆きの責が妹にあるように思え、薔薇の茨へ走っていくのを止めなかった。
妹の六歳の誕生日、妹が母に駆け寄り、父から剣を貰ったと話した。世継ぎの証しとして下さったのです、頬を紅潮させて語る妹に母はキスをして祝福した。私は母の手を取って、ミサに行く時間だと促した。

末の妹が母に接する時間は私達に比べても少なく、教師や父といることが多かった。武門の大貴族として、与えなければならないものは沢山あったのだろう。やがて、遊び相手兼護衛としての男の子が屋敷に来て、妹は自由な時間の殆どを彼と過ごしていた。

女の世界は閉じていて平穏で、凪のように過ぎる。上の姉が嫁いでも、母や私に変化はなかった。妹はドレスを着ないまま、士官学校に入った。黒髪の男の子と転げまわるように遊んでいたのが、重い剣を下げ背筋を伸ばし、靴音も高く歩く。母はそんな末娘の背中を見送る。私や他の姉妹には決して向けなかった表情で。
やがて私にも結婚の話がきた。貴族の娘の義務は結婚すること、嫁ぎ先の世継ぎを産むこと。姉二人も嫁ぎ、私の意向を訊いた母にひとつだけ条件を出した・・ヴェルサイユを離れたい。

妹を追う母の寂しげな眼を見たくなかった。来客が扇の影で、神の摂理に反していると囁くのを聞きたくなかった。人々が妹の美しさに惹かれながら、眩しすぎるが故に、畏怖し貶めるのを見たくなかった。

 

ただ愛され消費されるのではなく、自ら輝く美しさ。それは異端で理解し難く、太陽のように熱く燃える。その熱に吸い寄せられれば、炎に向かって墜落するだけ。
私はそのように美しくない。そんな力強さはいらない。ただ穏やかに生きたいだけだ。母の哀しそうな眼から、私は逃げる。路傍の花のような人生を選んで。

 

花嫁衣裳を着て、私は部屋に一人でいた。手が冷たく、頬は青褪めている。本当にこれで良かったのだろうか。母からも、生まれ育ったヴェルサイユも離れて、知らない土地へ行くことは。震えている私にノックの音が聞こえ、妹が入ってきた。
――姉上
生まれた時から変わらない、碧い瞳。誰もが惹かれ魅了された、私も。
――離れるのはとても・・寂しいです。でも・・。
揺れる金の睫毛から、はらはらと雫がこぼれた。涙で瞳が煌いている。
――今日の姉上は、この上なくお美しい。

 

 

私の・・私の愛しい妹。美しく強く心優しい子。ずっと貴方の光を浴びてきた、愛さずにはいられなかった。眩しさに眼を細め、いつもその後ろ姿を追っていたのは私だ。母の横で、陽のあたる方へ駆けていくこの子の姿をずっと、見ていた。私はこの子が走っていく未来へいけない、追いつけない。だから、これ以上辛くなる前に離れてしまおう。そう思って・・。
――おめでとうございます、姉上。お幸せに。
神様、私ではなく妹に、最大の祝福をお与えください。大輪の薔薇のような激しく美しい人生を歩む妹に、もっとたくさんの幸福を。
鐘が鳴り響いた。私たちの道が分かたれる時間だ。私は新しい人生を進まなくては、自分で選んだのだから。この子と同じ強さが、私の中にもあることを信じて。

――オスカル、私の愛しい妹。貴方も幸せになって。ずっと・・・

 

 

 

貴方を愛しているわ

 

 

 

 

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美しい子ども-あれから