三つの世界

人が己の顔を見ることが出来ないのは、考えてみればとても奇妙なことだ。鏡に映る像は常に反転されており、さらに反転させる細工をした鏡でも、人の眼が直接見る形とは異なる。
ならば、指先に目がついているとしたらどうだろう。顔の形だけでなく、膚の肌理、筋肉の動き、唇の湿り、耳朶の柔らかさ、そういったものも全て指が見て取れるとしたら。

彼はそうやって彼女の顔を見ていた。無論、二十数年間見続けてきた顔は耳の線に至るまで覚えている。耳の後ろから項への曲線が、息をのむほどに美しいことも。

片目を失ったとき、彼女の姿かたちが、僅かに歪んで見えることに気づいた。左で捕らえていた空間を失い、右目がそれを補うには限界があった。視界の左下の隅はほんの少し湾曲し、顔を動かさなければ平衡を取り戻せない。
彼は当初こそ苛立ったが、次第にその歪みを愛し始めた。どれほど美しい顔でも、完全に左右対称ではない。彼女の眉頭は、凝視しなければ判らないほど、微細にずれていた。微笑むときの口元は、右のほうがこころもち高く上がる。愛する者が見つめるからこそわかる、微かな歪み。それを知っていることが彼の自負であり、左隅に映る彼女の姿が彼自身にしか見えない形であることも、喜びだった。

しかしやがて、喜びと愛しさの泉も失った。左眼のように、いちどきに無くすのではなく、掠れては見え、見えては暗くなり、一部が欠け、視界が狭くなっていった。
庭の泉の傍を通るときは、水に手を浸してから眼を冷やす。気休めにすらならないと判っていても、ただ手をこまねいていたくなかった。一日、半日、数分でもいい、彼女を見つめていたい傍にいたい知られたくない。

そうやって足掻いていたある日のこと。彼はいつものように、冷たい水に手を入れた。花崗岩の水盤は内側に小さく藻がついている。そのぬるりとした表面に触れた時、何かを感じた。指先が熱い鉄に触れたように、瞬間ひりついた。眼で見ていた時は、ただ暗緑色の藻でしかなかったものが、手で触れると全く別のものに思える。彼はもう少し強く触れてみた。冷たい水の中で、藻は不思議に暖かく感じる。彼女の自室の椅子にある天鵞絨の手触りにも似ていた。それが指で物を見た最初だった。

階段の手すりは硬いようでいて、吸い付くような温もりがある。白磁の茶器は金粉の縁取りだけ冷たい。軍服の手触りは、彼と彼女のそれとでは違い、彼女の服は圧縮された織物の表面が滑らかで暖かい。毛の質と織の差なのだろう。
腕を取って抱き寄せるとき、布のざらついた表面とは別に、彼の首に腕を回そうとする筋肉の動き、なだらかな骨の硬さが全て、指先で見てとれた。顎から頬へ、少し辿るだけで手触りが違う。弓のような顎の硬い線から、吸い付く頬の柔らかさ。そして・・口元。頬の筋肉とは明らかに違う、唇の端は少し渇いている、そのまま辿って内側へ。しっとりと湿り、軽く開いて彼の指を受け入れる。舌は微かに震え、硬質な歯の先とは異なり、柔らかく揺れている。瞼に感じる眼の球体、頬骨の形、首筋で脈打つ鼓動、真っ直ぐな鎖骨の線、掌にはずんでおさまる乳房、鳩尾から下のしなやかな筋肉。指先だけでなく、重ねた身体全体に、体温と汗が伝わった。

 

眼で見るものは表層に過ぎない―――彼は気づいた。彼女と駆けた森の中で、午後の日差し差す木立は視覚の世界、樹を覆う樹皮に触れる時、それは触角の領域で地下の世界。まだ見える眼で彼女を見つめる、その頬に触れる、その二つの世界のあわいに彼女という境界がある。

 

彼はその三つの世界で生きた。まだ時々は幽かに見える眼と、指先で触れることによって知ることと。彼は二つの世界を行き来し、時折混乱した。僅かに光が見える出口まで、まっすぐ歩けるだろうか。指で探っている階段の段数は合っているだろうか。何より、彼女の声がするほうへ振り向いて、視線をずらさず見つめているだろうか。その眼に、縋るような気持を表していないだろうか。彼女に知られたくない想いと同じだけ、不安を拭ってほしい気持ちもあった。知られてはいけない――気づいてほしい。嘆かせたくない――知って寄り添ってほしい。

これもまた、分断された二つの世界。眼で指先で、表も裏も、朝と夜との、世界の境目に彼女がいる。だから、失うわけにはいかない。彼女がいなくては、地上と地下は混ざり合い、混沌に陥るだろう。眼ではなく指先で見る世界すら意味が無くなってしまう。

口元に滑らせる指先に、唾液ではないぬるりとした感触がある。乳房に手をおくと、呼吸以外の掠れた音が伝わる。彼女が決して言葉にしない事実を指で見ることができても、彼も伝えられない。互いが怖れを抱き、互いのために沈黙する。いつか、遠くない日に終わりがくる。彼女の胸が破れ、彼の眼が潰れ、三つの世界が瓦解するその日まで。彼は壁に花に指を滑らせ、網膜に映る僅かな光を辿る。

 

 

冷たい水盤の、水面に映る木々。その下に、微生物と藻が揺らめく水中。境界の水鏡は静かに止まっている。落ち葉が気まぐれにさざ波を立てるだけ。もう――水面を指で乱す者はいない。

 

end