それは、私の夢ではない。
二人で海岸を歩いた。幼い頃幾度か訪れたアラスの、いつも波が穏やかでさざ波うつ海面に陽の光が反射した。波打ち際に小さな蟹、何処から辿り着いたのか木肌が滑らかになった流木、貝の破片、お前の瞳のような黒曜石の欠片もあった。潮風が首元を通り抜けると少しだけ砂が混じっていた。
お前の瞳に私が映っている。横顔が陽に朱で染まっている。お前の柔らかな黒髪が風に遊ばれるのを見てふと、触れたくなった。私が手を伸ばすとお前は少し驚いたようで、それでも微笑んで。
髪が潮風と砂で重くなっている。長かった頃の彼の髪は、触れると不思議に暖かく鳥を抱いているような心地がした。夜に飛ぶ鳥・・私はその鳥が月を横切り、地上に影を落とすのを想像した。
彼は何処かへ飛び去ってしまわないだろうか。彼は出会ってからずっと、私の傍にいて静かに微笑んでいてくれるけれど。彼の翼は大きく強い、何処へでも飛んでいける。俯いてしまった私を訝しみ、彼が私の肩に手を置く。私はその右手を両手で抱く。彼の掌が私の涙で濡れている。彼が怖れを抱いている者のように私を抱きしめる。
波音が―――深い碧の、蒼の、群青の、深紅の、黄金色の、海から聞こえる波音。裸の胸に顔を埋めた時に聞こえる音。規則正しく強く脆い。この鼓動を波音を失いたくない。途切れて消えてしまうことが恐ろしい。私達が生まれる前から波はあるのだから、波音と同じ彼の心臓の音も、途絶えることはないはずだ。
首に腕を回して口づけした時、微かに潮の味がした。私の指を掬った彼の口許にも砂が。私達は砂に埋もれ、海に溺れ、深い淵に沈んでいく。彼が苦し気に眉を寄せる、開いた口元から声が漏れる。見上げる彼の白い左眼の痕に指を添わせると、ふっと彼の表情が緩んだ。私を愛してるように見つめる彼の右眼。私は其処に海の色を見た。夜の海の漆黒、藍色、翡翠色、蘇芳、梔子、海のあらゆる色が彼の中にある。彼も私の中に色を見ている。もう見えてはいない瞳で。
深く沈んだ私達が昇りつめる。声が波音より高くなる。嵐は海ではなく私達の中に。荒れ狂うお互いにしがみつき、息ができず、砂に塗れた手が滑べる。口づけが辛く、繋がっている身体が熱い。頬に落ちるのは涙なのか波の飛沫なのか判らない。濡れて溺れて離れることが出来なくて、私達は波に攫われていた。お互いを貪る波に。
だからこれは私の夢ではない。彼の夢でもない。彼にはもう見えなかったのだから。
今、私は待っている。彼に再び会う日を。これほどに会いたいと願っている。私の生命の終わる瞬間に、焦がれるほど会いたいと。弾丸と硝煙が空を覆う。何処か遠くで勝利の声がする。その灰色の煙が途切れ、空が見えた。あの日の海のような青。
夢でいい、幻でいい。帰ってきて、私の元に。
あの海へ私達は帰る。あの海へ私達を埋葬し、墓標は波に晒して欲しい。私達の幸福、私達の愛、私達が生きた海へ
二人で、還ろう。