生ましめんかな

子どもが生まれた。夏の終わりだった。

 

蝉は鳴かなくなっており、繁るばかりだった青葉も伸びるのを止めた。夕方、陽が沈むとほんの少しひんやりとした風が吹き、身重の女は小川のそばで立ち止まって息をついた。早く水を汲んでおかなくては、昨日の汲み水はもうぬるくなっている。小さな家の大きな瓶に水を移した時、声にならない声を出して膝をついた。足元にぬるい水溜まりが出来た。

夫の帰りは遅い、痛みは激しくなってくる。息を止めては駄目、子供が苦しくなると隣の老婦人から聞いたとおり、女は必死に深い呼吸をしようとした。しかし増す陣痛と初めての出産に対する不安から息が浅くなる。涙が零れていたが気づけなかった。このまま歩いて隣に知らせるのは無理だ。早く早く帰ってきて、誰か・・誰か来て、手を握って誰か。痛みは波のように押し寄せる。もう判然とした意識もなく、ただ本能で突き動かされていた。痛い痛い痛い苦しい息がもうすぐもうすぐ身体が割れそうにもうすぐもう・・・意識はそこでふつっと途切れた。
マリー、マリエット、しっかりおし。ごめんマリエット、目を開けてくれ。元気な男の子だよ。隣人と夫の声は聞こえなかったが、耳を劈くような産声が確かに響いた。母親がうっすら目を開けると、父親の手に抱かれた赤子が見えた。私の赤ちゃん・・私の。母親が子どもに手を伸ばしたその時、小さな家の周囲で一斉に蝉が鳴きだした。
晩夏の力無い声ではなく、今この瞬間に森中の蝉が羽化したかのように、家の壁を振るわせるほどの強く響く蝉の声。父親と隣人は驚いてあたりを見回したが、母親だけは濡れた赤子の黒髪を撫でていた。家に響く音は、遠く教会の鐘の音のようだと思いながら。

 

子どもは小さな足で大地を踏みしめ、自分の半身ほどもありそうな水桶を運んでいる。以前は父親の役割だったそれを、幼い子は手が痺れそうになりながら運ぶ。父が軽々と抱えていた桶を殆ど引きずるようにしなければならなかったが、町から母が帰ってくるまでに甕を満たしておきたかった。小さな村で母子二人が生きていくためにしなければならないことは多く、その大半を身体の弱い母が担っていることを子どもは感じ取っていた。もう陽が傾いている、もうすぐ丘を登って母さんが帰ってくる。春遠い一日は暮れるのが早い。今日は母さんが戻ってくるのが遅い。もう陽があんなに傾いて、あんなに真っ赤に・・。

 

―――アンドレ!
呼ぶ声は母ではなく幼い少女だ。茂みに隠れた少年の頭上で、満面に笑みを広げた金髪の少女。見つけた、今度は僕が隠れる。でももう先生が来る時間だろう、戻らなきゃ。さっきまで笑っていた少女はむくれて向こうをむいてしまった。瞬時に変わる少女の表情、剥き出しの真っ直ぐな感情、笑いながら怒りながら泣きながら、ふわふわした金髪が揺れる。その全てが少年には眩しかった。移り住んだ館は金箔が目に痛いほどだったが、少女の眩しさはその類のものではなく、故郷の木洩れ日に光る小川や、冬の小さな暖炉に跳ねる火花と同じ、懐かしいまでに暖かかった。冷えた手を太陽に伸ばすように、少年は少女の眩さに魅了されていた。怒った少女を宥めながら、少年は館へ戻る。そこが彼の家になったのだから。

 

彼の世界は館の中から、綺羅の宮殿へと広がっていった。彼と、もう少女ではない彼女と、二人は揃って足を踏み出す。宮廷に一歩入った時、彼らが痛いほど感じたのは、退屈が何より嫌いな宮廷人からの好奇の視線だった。将軍の娘が男装して近衛に入る。数千の眼が彼らに注がれたが、侮蔑交じりの視線が驚嘆に変わったのを彼は感じた。彼女の氷像のような美貌、そして半歩後ろに影のような男がいる。金と黒のコントラストに一瞬気圧された人々は、そのまま眼をそらした。
守らなければ――主人夫妻の意を受けた祖母に言われるまでもなく、彼は判っていた。魍魎の跋扈する宮廷にあって、彼女の輝きを保つために己がいることを。
衣擦れと絹の靴音がひっきりなしに響く宮殿。香水とつけ黒子と降り落ちる髪粉。ここでは誰も本当のことは言わない。エスプリは裏返しの権謀術数だ。笑っている相手の口元が妙に下がる、それは侮蔑や怒りの合図。彼は相手の口角の僅かな歪みで感情を読むことが上手くなった。彼女は彼女で戦っている。王太子妃の輿入れに合わせた異例の抜擢、それが酔狂ではないと知らしめるために、彼女は持てる力全てを注いでいた。その細い背中を守らなければならない、彼が生きる意味は其処にあるのだと。

 

細かった肩や腕は成熟した強さに変わっていったが、彼らはまだ二人でいた。彼が彼女の背中を見つめる位置にいるのも同じだ。依然彼女の肩には軍服の房が揺れていて、しかしそれを脱ぐ日が来るかもしれなかった。降ってわいたような結婚話。彼らの距離が離れ、手の届かない場所へ行く。彼は兵舎の隅で、屋敷の庭先でふと立ち止まり放心することが多くなった。これからどこへ行けばいいのだろう。彼女を守るという意味と役割、それが消えようとしている。そして何より、愛しい女性を失うことが。
いつから気づいていたのか判らない。幼い頃彼女が振り返って笑うたび、悔しさに肩を震わせて泣くたび、彼の心は千々に乱れた。泣かないで笑っていて、もっと光の中にいて。そして出来るなら――愛し返して。言葉にできずとも秘めていた想い。一度は抱えきれず溢れてしまった、そして彼女を傷つけた。それから彼はいっそう影としての役割を全うしようとした。守る者が損なってはいけない、より辛い道へ自ら進む彼女を、変わらず背中を預けてくれる人を裏切っては、己が終わってしまう。そう信じていた、信じていたのに・・・教会の鐘の音が聞こえる。葬送の鐘。

 

――私は此処にいるべきではない。お前にも話していなかったな、あの日判ったんだ。フランスはもうこの宮殿の中に無いと。王がフランスだった時代があった、それから百年、長すぎる年月が宮殿の箍を緩ませてしまった。表層だけを飾り立てた宮殿に真の意味で住んでいる者はいない。遠くない将来、ここは見捨てられた空しい廃墟になるのではないか。だから私は探さなければならなかった。ただ足掻くだけかもしれない、探して迷うだけだとしても。私は立ち止まることが出来なかったんだ。
彼女がワインを傾けながら、物憂げに目を伏せ呟くように話す。彼は十数年前の、宮殿に足を踏み入れ、彼女と共に鏡の部屋を歩いたことを思い出す。極彩色のジレやローブが映る虚像の間を、怖れを知らぬ者のように確かな足取りで前だけを見て歩く。しかし彼女の心のうちは不安に満ちていたことを彼は知っている。女でありながら軍人としての重責を担うのは、まだ14歳の少女なのだ。彼以外気づくことのなかった、不安怖れ哀しみ。眼前の彼女の中に、あの頃の少女がいる。戸惑い不安に駆られながら、それでも前を見つめて進んでいった少女が。
惑い迷っていたのは彼だけではなかった。彼女もまた霧の中にいる。惑いながらそれでも出口を見つけるためにもがいている。彼女はきっと死の直前まで進むことを止めない。疲れ果て膝を折りたくなっても、這ってでも進む。そういう生き方しかできないことを、彼だけが知っているのではなかったか。彼はワインを床に払い落とした。もう死者を送る鐘は聞こえなかった。

 

伝令の声は上擦っている。聞いた彼女の顎の線がきつくなった。青白く細くなった横顔。こなければいいと願っていたこの時が来てしまった。
衛兵隊にいてもずっと、彼は彼女の言葉が頭の隅から離れなかった。見捨てられた廃墟。数万の人々が今なお輝きと威光を信じているあの宮殿が、崩れる時がきたのだろうか。瓦解する旧世界を後ろにして、彼女の進む道はますます険しい。疾走するその先は断崖だとしたら。
彼女の手を取り、抱き寄せる。お前はどこまでも暖かい、そう寄り添う彼女の言葉とは裏腹に、彼の心は砕けそうだった。口づけの時の微かな血の味、どれだけ目を凝らしても僅かな輪郭しか見えない視界。旧世界の崩れる時、巻き込まれ埋もれる者もいるのではないか、それが彼女と己であってもおかしくはない。このまま彼女を無理やりどこかへ連れて行こうか。憎まれ蔑まれたとしても、彼女の命が消えるよりは。
アンドレ――呼ばれて目を落とす。お前が遠くを見ていると私が映らない。私は此処にいるんだ、何処へも行ったりしない。彼は寂しい微笑みを浮かべた。そうだ、今見えない眼に映すべきは、遠い明日ではなく今日腕の中にいる、強く羽ばたこうとしている彼女だ。ありえないことを夢想するのは止めよう。彼女の翼を折るなど守る者がすべきではない。
アンドレ、明後日、いやもうすぐ明日だ。明日が来ればお前はもう守らなくていい。私達は・・・眠る直前、彼女の声が聞こえた。しかしその意味を追うことはできなかった。

 

蝉が鳴く、鳩が羽ばたいている。舞い上がる土埃の向こう、金色に輝くのは。生まれた時、眼を開いていたと聞いた。碧い眼は何を見ていたのだろう。冬の夜に降りしきる雪の輝きだろうか。夏のこの暑く青い空ではなかったろう、息が苦しい、声が出ない肺が動かない。まだだ、まだ、生きたい。これからなんだ、彼女が見つけようとしたもの、二人で行こうとしている明日。かくれんぼをしていたあの庭先からずっと探して、求めていた、ただ守っていただけではなかった、闇の中から伸ばした手を掴んでもらった、私は此処にいて離れないと誓った言葉を、愛し合えること、信頼していること、父と母と故郷を失ってからずっと探していたもの、全てこれから、だから泣かないでオスカル笑っていてよ・・・・蝉の声、羽音・・いや、鐘の音だ・・あれは・・。

 

 

堅固な牢獄が崩れ落ちていった。石が落ちた地表にも塔の上にも骸があった。弔いの鐘が鳴り響く中で、子どもが生まれていた。ひと夏だけの鳴き止まない蝉の声と産声が混ざり合い、夏を告げている。まだ夏は続くと、まだ終わりではないと。

 

 

END