コルセットの紐を締める。シャツの袖に腕を通す、靴下を穿く、キュロットの釦を留める。そして、青い軍服を手に取る。自重が伝わった。肩章の房はこれほど重かっただろうか。オスカルは一瞬躊躇したが、そのまま肩にかけた。身支度はいつもひとりでする。硬い軍靴の重みを感じさせないように廊下を歩く。扉が重々しく開けられると、外の陽光が眩しかった。
オスカルは歩きながらふと、西側の窓から差し込む光が、細く長く床と向かいの壁を照らし出していることに違和感を覚えた。もう午後になったのだ。差し込む夏の日差しは変わらないはずだが、宮殿を行き交う人は変わった。人生の夏を謳歌し、笑いさざめいていた人々はもういない。物思いに耽りながら歩いていると、侍従に止まるように言われた。いつの間にか謁見の間の前まで来ていた。
何度も見慣れた扉が、呼ばわった声で内側から開かれると、奥に一人の女性が座っていた。オスカルは数歩進んでゆき、跪いてこうべを垂れた。
「オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ准将、お見えでございます」
その声で女性が立ち上がる気配がし、花の香りが近づいてきた。
「顔を上げて頂戴、オスカル。こちらの椅子へ」
声は変わっていないように思えたが、顔を上げ見つめた王妃の頬は以前より細くなり、眼の影も濃い。
「王妃様・・・・」
「戻ってきたのね」
「軍籍を残してくださったこと、お礼の申し上げようもございません。ご温情がなければここにはいられませんでした」
「あなたは、戻ってくると思っていたわ。逃げず戦う、それだけは私と同じですもの」
「もったいないお言葉を」
「もう一度王家を、私を・・守ってくれますね」
細長く暗い廊下と相対するように、光溢れるよう工夫された室内で、二人の間にある沈黙だけが重い影を投げかけていた。
「王妃様、私は王家を守る資格の無い人間です」
王妃の眉が上がった。目を伏せたオスカルの、軍服の肩章が揺れている。
「・・何故です」
「最も守るべきものを・・守れなかったからです。真実から目をそむけ、罪の無いものを深く傷つけてしまった。私が何かを守るなど・・しかし、だからこそ」
顔をあげたオスカルは正面から王妃を見据えた。青い瞳が陽を反射して燃えている。
「私如きが申し上げることではないかもしれません。王妃様、なにとぞ勇気を持って民衆と向き合ってください。王は国の父、貴方様は全ての国民の母です。父が母が、子を信じなくては国が崩れます」
長い沈黙があった。その間、オスカルも王妃も互いから目を逸らさなかった。
「・・今、パリに三万の軍隊が集結しています」
「王妃様、それは」
「国とは、王です。王のいるこの宮殿が国の心臓であり、心臓が止まれば国も滅びる」
「しかし」
「私は王妃として、ルイ王朝を守らなければなりません。オスカル・・あなたは」
「はい・・・」
「・・何を守ろうとするのですか」
夏の長い陽が傾いていく。白く明るい部屋に、天井からゆっくり影が落ちていった。
今日も広場の中央で扇動者が演説していた。アランは歩きながら、男の叫ぶ話を耳に挟んでいる。曰く、王は敵国の使者である王妃や、権力に妄執する貴族の意のままになっている。事態を打開できない王に変わる新しい指導者が要る、諸外国の干渉を排し、フランスを今一度輝かしい国にするために、新しい王を。
アランは首を振った。権力が入れ替わったとしても、小麦の高騰が終わるはずもない。しかし何人かの男が演説者に同調するように声を上げ、集まった群衆も煽られているように見えた。
アランが広場を離れようと路地に入った時、ふと立ち止まった。先ほど演説者に賛同していた男の一人が軍人に何かを渡している。青い軍服の男は受け取ったものをすぐに懐に入れ、足早に立ち去った。それが衛兵隊の軍曹であることをアランは知っている。彼は踵を返し、行き先を変えた。
「ジェローデル様、ご報告が」
「彼のことか?」
“彼”の捜索をしているのは、ジェローデルに長く仕える従僕だった。多忙を極める主人に替わり、市中を探索している。
「いえ、そうではなく。先ほど使いがありました。ジャルジェ准将が軍に復帰されると」
「・・・オスカル、貴方はやはり」
ジェローデルは椅子に沈み込み、首を垂れた。自ら火中に進んでいくオスカルを、ついに止められなかった己を責めて。
「金だと」
「A中隊にな。口止めされてても、酔うと口の軽くなる奴はいる」
「俺たちの隊はないよ。ダグー大佐が目を光らせているし、そもそも金を受け取って部下を買収するような軍曹がいないから」
呼び出したフランソワとジャンから聞いた話は、アランが危惧していたとおりだった。誰かが軍の内部を突き崩そうとしている。それは誰だ?どこまで亀裂は広がっている?
「俺たちは食うために軍に入って忠誠なんか無いけど、汚い金で動く上官に命を預けたくはない。裏切り者は土壇場になれば部下なんて簡単に捨てる」
「でも今のパリはいつどんな事態になるか判らないよね。クズみたいな命でも、理不尽な命令は受けたくないな」
「お前らはクズじゃねえよ」
自嘲するジャンの頭を小突いたアランに、フランソワが向き合う。
「アラン、隊長が戻ってくる」
「・・そうか」
「アラン・・」
「判ってるさ・・」
硝煙の匂いがする。隊列を組む軍靴の音、一斉射撃の響き。戻ってきた、いるべき場所に。
ノックの音とともに副官が司令官室に入ってきて、オスカルに敬礼した。
「隊長、よく・・お戻りになられました」
実直な老士官の眼が揺れていることにオスカルも気づいた。
「ダグー大佐、長い間すまなかった。早速だが調べてほしいことがある」
「はっ」
ジェローデルから言伝られた話も含めて命令すると、大佐は出ていった。オスカルはあらためて窓に向き直り、陽光眩しい外を見渡す。そこへ再びノックの音がした。
「入れ」
「アラン・ド・ソワソン、本日より復帰いたしました」
「戻ってきたか」
「はい、隊長と同じく」
「そうだ。私もお前も・・」
外を見つめたオスカルの横顔が、青白く細く壮絶に美しい。雨の日に会ったオスカルはただ儚く消え入りそうだったが、今は違う。
「あるべき場所で、すべき事を為さなければならない」