悪霊

<Ⅰ>

私が幽霊と結婚していたことがあると言ったら、君は驚くかね。おや、怪訝な顔しているね。この国で幽霊話は、アフタヌーンティーの話題に過ぎないというのに。私の顔はそんなに妙に映るのか。そう、私は一度死霊に取り憑かれたことがある。それから私の顔は常に青ざめている。私自身が幽霊だと言う者もいるだろう。だが恐ろしい幽霊は私ではない、それは私の妻だった。

このクラブでしか会わない君は、私が結婚していたことを知るはずもない。それはほんの暫くの間だけだったから。聞いたかもしれないが、私はかの国から亡命してきた。財産といえば殆どこの身一つだったのだが、悲しいかな私には才覚がありこの国で成功した。この話は、私が冷徹な悪魔として成功する前の話だ。

 

この国に来た時、私は妻を連れてきた。非常に美しい人だった。金色の髪は昇る朝日の色、青い瞳は深い海底の色、白皙の肌、赤い柘榴の実のような唇。私がどれほど彼女を愛していたか、君は知る由もないだろう。出会った日から、恋こがれ続けてようやく手に入れたのだ。
しかし彼女には愛する男がいた。それを認めるのは何十年経った今でも胸が痛む。だが確かに彼女は彼を愛していた。心から、命をかけて。だが彼らは結婚することができなかった。彼女の父は彼を認めなかったし、彼女は私と結婚することを選んだ。その理由は多分君が想像していることは違う。彼女はあまりにも重いものを背負っており、そのために彼を選ぶことができなかった。彼らの結びつきは・・ああ、語ることが苦しいよ。彼らがどれほど深く繋がれていたか、君にも私にも想像することはできない。

彼女はそれでも、私の良き妻になろうとしていた。とても誠実な人だったから、私と結婚した以上、過去に縛られてはならないと己に課していた。私もそれに満足しようとしていた。彼女の深く愛する男ではなくても、夫であることだけで満足しようとした。
しかし人の心とはままならぬもの。彼女は時折放心したように、窓の外を何処か遠くを見ていた。そんな時私は声をかけることができなかった。彼女の心が男の元へ、もうとうに死んでしまった彼の元へ、行っていることがわかっていたから。

 

<Ⅱ>

故国での彼女は胸を患っていて、医師に転地するよう勧められていた。彼女は自身の義務を果たそうとしたが、どうしても無理だった。そこへ私が来たのだ、彼女の父親に彼女と結婚させてくれと。結婚して内戦寸前だったパリから離れれば、彼女も生きながらえるだろう。彼女の父も私もそう考えた。そして彼はそのまま彼女の代わりに死地に赴いた、到底生きては帰れない戦いに身を投じて。その時の彼女の有り様は・・・話したくない。
しかし、畢竟人は生きるものだ。彼女も生き続けようと決めた。だから私とこの国に来ることにも同意した。子はいなかったし、彼女の最愛の相手にもなれなかったが、それでも私は満足していたんだよ。昔から私は自分の手の中にあるものだけで充足していた。どうしても欲しいと思ったのは、後にも先にも彼女だけだ。

何時からだろう、彼女が見ている先に僅かに影を見止めた。秋の樫の木蔭に、黒髪の男が立っている気がした。掃き出し窓に向かう椅子に腰かけ、風に髪を揺らしながら目を伏せ、何かに耳を澄ませているような彼女。声を荒げ腕を掴んで引き戻したいと、そう願ったよ。しかし私は、彼女の半分を彼の墓に埋めたことを知っている。この国での彼女は、影すら薄まったようだった。一年の半分は雲に覆われている国で、日光が熱く照り付け大地に人々の血が吸い込まれる故国のような、くっきりした影は出来ない。だから・・そう、あれも夏の日だった。

 

<Ⅲ>

その日は暑かった。風も全て止まったようで、湿気がまとわりついた。私が館に帰ると彼女は、男の服を着ていた。おや、驚いたかね。昔の彼女は殆どドレスを着ることはなかったのだよ。この国では他の貴婦人と同じように、長い裾のドレスだったが。私は努めて何気ない風に、懐かしい装いだと言った。彼女はほんの気まぐれだと、暑い日だったからこの姿の方が心地いいと。ゆったりしたブラウスとキュロットの彼女は、以前とまったく変わっていなかった。私が胸を焦がし、傍らにいる黒髪の男に成り代わりたいと願っていたあの頃、彼女はいつも前を見据え、力強く歩いていた。
その時私は、自分が取り返しのつかない酷い間違いをしたと気づいた。彼女の半身を墓に埋め、それでも生き永らえさせることは正しかったのか。彼女は彼と共に、あの暑い夏にいるはずではなかったのか。此処にいる彼女は生きていると言えるのだろうか。
私は言葉に詰まり、動くこともできずにいた。やがて風が、開いたままの窓から吹き込んできた。彼女はうっすらと微笑み、外の闇を見ていた。私はどうしても、そちらを見ることが出来なかった。

その日、私は早く床についた。蒸し暑く寝苦しく、何度も寝返りを打って浅い眠りから覚めると、彼女がいなかった。私は飛び起きたよ。慌てて辺りを見回し掃き出し窓から外へ、ああ窓は開いていたんだ、そのまま駆けだすと・・・果たして彼女はいた、彼と一緒に。

月のない晩だった。なのに彼らの周りだけが、白く浮き上がっていた。駆け寄ろうとしたけれど、どうしたことか全く足が動かない。ふと自分の足元を見ると、おびただしい薔薇の蔓が私を縛っていた。それでも私は声の限りに叫んだ、彼女の名前を呼んだ。オスカル―――オスカル、私をおいて行くのか!

彼女は・・彼らは、振り返りもしなかった。青白い光の中にいるふたりはもう、この世のものではない、私の悲痛な声など届くはずもない。光は月のように煌々と輝き、私の眼を潰すほどになった瞬間、彼が振り向いた、私達の眼が合った。

 

 

 

・・・・・・・それからだ。私の顔が青白く、あの夜の光と同じになったのは。

 

そうだ、妻は見つからなかったよ。煙のように消え失せた。それからの半生、私は悪魔とも悪霊とも呼ばれている。無理もないだろう、私が焦れ妻にした女性は、彼女が愛した男は・・・・。

ああ君、なんて顔をしているんだ。すまない、まだ若い君にこんな話をするのではなかった。全部嘘だよ。私の今の話は全て、夢物語だ。年を取ると、目覚めたまま途方もない過去の夢をみるのさ。もしかしたら愛した女性はいたかもしれない、その女性は美しい金色の髪だったかもしれないが・・・昔の話だ。
遅くなったな、もうお暇しよう。誰も待っていない冷えた館でも、眠ることは出来る。今日は蒸し暑くて、寝苦しいだろうがね――――おやすみ。私の話は忘れてくれたまえ、私自身のことも、全て。

 

数日後、クラブの片隅に置いてあった新聞に、悪霊と呼ばれた富豪の死亡記事が載っていた。それは男の故国に革命が起こった日と同じだったことも小さく書いてあった。誰かが手に取って眺めていたが、そのまま投げ出され翌日には火にくべられた。

 

END

 

*参照;スコットランド民謡 James Harris より