真実の愛

あの男など死んでしまえばいい

 

胸にせり上がってきた言葉は、自身でも恐ろしいものだった。しかし、まぎれもなく本心だった。どうしてあれほどに彼女を捕らえているのか。幼い時から一緒に育った、士官学校でも宮廷に上がってからも、常に傍にいた。ただそれだけ・・ただ、それだけで。

それが私であったら?もし私が何の僥倖か、幼い彼女の剣の相手に選ばれていたら、私は今のあの男のように、彼女の分身になりえただろうか。いや、それは無い。私は彼のようにはなれない。これもまた、本心だ。私は自分の望みによって、事実を変えたりはしない。

「どうして、オスカル嬢は気づいておられない?」
一瞬、当惑したような男の表情にまた怒りが蘇る。お互いが互いをこれほど捕らえて、何故気づいていないのか。お前が持っているすべてのものを、命を投げだしてでも欲しいと思っている私の目の前で、ただ沈黙しているこの男。
お前は語らずとも、その片方の眼で、溢れるほどに想いを語る。彼女のために潰れたその眼をもって。たとえ私が両目を抉り出しても、彼女は一顧だにしないだろう。ただ痛々しく貧しい男を労わるだけだろう。勿論、私が欲しいのは同情でも労わりでもない、彼と同じものを!彼以上の繋がりを!

私は怒りに燃えている。この男を殺したい、滅したい。私の全霊で叩き潰したい。
「妻を慕う召使ならば、傍においてもいい」
笑みすら浮かべて私は言う。剣でなく言葉で刺すのが私達のいるヴェルサイユだ。刃は過たず彼の心臓を突いた。男の右眼が怒りに変わり、眉が攣り上がる。さあ、お前も私を刺すがいい。剣はある、私の心臓は此処だ、お前が私を殺せば、彼女は一生私を忘れまい。

だが、その一瞬の激情においてすら、男は私を傷つけはしなかった。ぬるいショコラと燃える眼だけを残して、去った。彼にとって私は殺すほどの価値が無かったということだ。私はジレを濡らしたまま、自身が敗北したことを知った。

結局私の怒りも愛も、彼らを引き離せない。あらゆる手段を使って妻に迎えたとしても、あの男を剣で貫いたとしても、彼女の心から彼を消すことはできない。私はショコラの染みたハンカチを床に捨てた。濡れたジレは火にくべた。

 

しかしそれでも、私は足掻いた。あの男に殺され損ねた怒りの感情が、愛に変換されて燃え上がる。まだ間に合うかもしれない、万にひとつのチャンスがあるのかもしれない。 私は初めて、自分の願望によって事実をねじ曲げようとした。
怒りと同じぐらい愛という感情も強い。彼女への愛はあの男の怒りによって、いやがうえにも増幅されていた。彼女が欲しい、どうしても欲しい。
「愛しています 美しい人」
私は楔を打ち込む、言葉によって。
手を取る、指が思いの外細い。抱き寄せる、腕に彼女の重みと体温が伝わる。合わさる唇が柔らかく、熱い。もっとだ、もう少し。あと少しで・・彼女の・・・心に。

何処かで聞いた。真実は人の心の数ほどあるが、事実はたったひとつだと。この事実は硬く頑迷で冷徹だった。私の真実は彼らの繋がりという、強固な現実の前に打ち砕かれた。

私は彼女の名を叫んだが、追うことは出来なかった。暗がりに彼女の背中が遠ざかる。

 

「愛しているのか、わからない」
彼女は言う。どちらかが傷つけば片方も同じだけ血を流す。愛も傷も同じだけ負ってしまう。
彼らの間にあるものが愛でないのなら、なんと名付ければいいのだろう。何者をもってしても切れることのない、ふたりでひとつの円を作っている。閉じていて完全で、欠けることのない真の円環。

屋敷に帰ると、暖炉の隅にジレの燃え残りが灰に塗れていた。これが事実であり現実だ。私は敗北したのだ。生まれて初めて、なりふり構わず欲しいと思った私の真実など、灰に埋もれるだけ。
崩れていこうとするこの国で、その真球は何処へ転がっていくのか。私が彼らの行く先を見ることはない。私の道は分かたれ、もう交わらない。その諦念と共に、彼女から離れるのも、また愛の形だ。私は彼女を、そして多分彼らを愛していた。それもまた、まぎれもない・・真実だった。