Ever Green 1

それは最初夏の小川だった。対岸に彼女がいて、容易に飛び越えられる。そして二人で笑いながら、丘の上まで競走する。

祖母は何度も、厳しい顔で忠告した。判っているね。勿論彼には判っていた。彼の主人で館の嗣子であり、彼より背が高く剣も強い彼女は、絶対的に守るべき存在だと。だから彼女が馬から落ちた時は、叱責より彼女の苦痛に歪む顔のほうが辛かった。彼女の痛み苦しみを、能う限り背負うこと。それが課せられた役目だと、彼は知っていた。

彼女が剣を振るう、剣先の動きが覚束ない彼の為に。彼女は彼と対等になりたいと思い、自身が教師に教わる時、見ているようにと彼に言う。だが教師は使用人が傍にいることに対して、眉を吊り上げた。二人の間の河が深いことに気づき、彼は硬い表情のまま離れていった。

食事の時、礼拝の時、彼と彼女の間に明確な線がある。奉仕する者とされる者。十字架に近い場所で跪く者、その背後で列をなす者。あまりに当然のものとしてあったそれを、受け入れていた彼は幼かった。

館の中だけで完結していた彼らの世界が、外へ開かれる時が来た。士官学校で貴族の子弟に従者が付くのは当然だったが、侍女ではなく従僕を連れた異例の女性士官候補は揶揄された。その侮蔑の矢の殆どは彼に向けられる。彼は時折、彼女の贈った栗毛を駆って丘へ遠乗りに出た。彼が行き先を告げてなくても、彼女が後から白馬で追いついた。彼女の手には剣で擦れ潰れた痕があり、彼はその手を小川で冷やしてやった。夕暮れには駒を並べ帰った。

隣国から来る王太子妃と共に、彼らはまた新しい階段へ進む。重要な政治手段の駒を迎えるにあたって、肝要なのは自国の威容を具現する煌びやかな華。美が力である以上、彼女が選ばたのは当然だった。光の溢れる回廊を王太子妃の手を取って進む。その光が眩ければ眩いほど、彼と彼女の傷は増えた。光の女主人と影の従者の対比には、驚嘆の視線と侮蔑の言葉が浴びせられる。しかし彼女は氷と評されるほどの透徹した態度と、彼は全てを河に流す柔軟さで宮廷の廊下を歩く。強くあるため、彼女を光の中に留めるため、彼らは生き延びる術を身に着けた。

そして少年が青年になる頃、変化が起きる。始まりは彼女の視線だった。人を畏怖させる強い眼差しではなく、長い金の睫を伏せて彼女が見つめる。秘するほど彼女の美しさは零れ出る。彼が気づかないはずはなかった。彼女はまだ己が何を追っているのか知らないが、彼には判る。視線の先は物静かで優雅な男がいる。二人の繋がりと信頼でできていた環に、綻びが生じていた。

 

長い間二人だけの円環の中で、お互いを補ってきた。彼女が苦しんでいれば彼が癒やす。彼が肩を落とせば彼女が寄り添う。その思いやりは変わらないはずだった。しかし彼女の変化は彼にも及ぶ。長い年月、彼が拠り所としていたもの。彼女を守り理解し、傍にいられるのは己だけという自負は砕けそうになっていた。もしも北欧の貴公子が秘めるだけの愛に疲れ、彼女の瞳にあるものに縋ったら。二人の結びつきを阻むものは何もない。金と銀の容姿、王族に次ぐ比類ない出自、神でさえ祝福する光の中の男女。そしてそこに―――

 

 

俺はいない。

 

 

 

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