Ever Green 2

 

お前のことは全てわかっている。お前が誰を見つめているかも。想いを抱え切れず、想いを消そうとして苦しんでいるのも知っている。なのに何故、全て知ってるのに。
どうして俺はお前の幸福を願えない。どうして恋が成就して、お前が幸せになるようにと思えない。お前を守って癒して全て受け止めて、他の誰よりも自分自身よりも大切だと、そう思ってきた、それだけが拠り所だったのに。どうして、涙を流さず泣いているお前の肩を抱いてやれないんだろう。どうして俺は・・・お前から離れられないんだろう。

どうして・・・

どうして、お前は俺の気持ちに気づいてくれない。

 

彼と彼女の間にあるのはもう、小川ではなかった。黒く錆びた、強固な鉄の壁。恋が祝福され光の中にいるのは、存在を許された人間だけだ。同じ場所に生き同じ大気を吸っていても、彼岸と此岸では世界が異なり、自分は決して壁の向こうへ行けない。貴公子と彼女のいるその向こうへは。彼は知ってしまった。判っているね、祖母から言われた言葉の意味を。

だからそれは当然の帰結。彼女がまた泣いている、涙を流さず肩を震わせて。無垢だった幼いころを反芻するのは、今が幸福ではないから。幸福でないのは、想いが叶えられないからだ。想いが叶えられないのは、相手に拒絶されているから、だから。

 

全部、壊してしまえ!
全て壊して粉々にする。力づくで壊して灰にしてしまえば、執着も無くなる。超えられない壁に絶望することも。もう終わらせよう、終わらせたいんだ、終わらせてくれ、終わり終わり終わりに終わらせ―――

 

「それで?」
別離の哀しみにも泣かなかった彼女が、頬を濡らしていた。
「どうしようというのだ・・」
彼は身体を離す、握った拳と口元が震えている。自身が暴いた彼女の細い肩と白い胸元を、絹の上掛けで覆い隠す。彼女に背を向け、悄然として立ち去ろうとして足を止めた。
「愛している・・いや、愛してしまった。どうしようもなく・・」
その言葉だけ残して扉を閉めた。

彼はその晩、夜通し歩き続けた。歩き彷徨い、空が白むころ厩舎へ帰った。気配に気づいた馬が小さく嘶く。自分の栗毛の奥にいる白馬に目をやると、そこに彼女が立っていた。
待っていた、行こう。それだけ告げて彼女は馬に跨る。彼も黙って彼女の後に続き、幾度となく訪れた丘の上まで駆けた。朝の薄い霧が次第に晴れて、遠くまで見通せる。

「私はもう、あの場所にいるべきではない」
彼女が指し示したのは、遠くに霞んでいても威容を誇る宮殿だった。彼ら二人が半生を過ごし、血と汗を流した。
「近衛を辞める。あの柵の中から出て、これまでとは違う生き方をする」
彼もまた朝の光に浮かび上がる宮殿を見た。あの中で、彼女と彼は決して同じ場所に立つことが出来なかった。
「だからアンドレ。お前も選んでくれ」
「俺が?」
「そうだ、お前は、何処に行きたい?どう・・生きたいんだ?」
選ぶ?あの屋敷に来て、彼女の従者になったのは、親を喪いそう定められたからだった。自身の選択ではない。自分で選んだわけではない、ならば。
「俺は・・」
足元の小川は静かに流れていた。風が朝の鳥の声を運んでくる。水音と風の音しかしない沈黙の間、彼女は黙って待っていた。彼が息を小さく吸いこんだ。

 

「その資格があるならば、お前の傍にいる。何処にいてもどんな生き方をしても、命ある限り、お前と歩みたい」

 

彼女と共に生きてきたことも。どんな時もそばにいて、彼女の全てを愛すると決めたことも全部、俺が選んできた。今此処に立っているのは自分の意志だ。たくさんの運命の岐路の中で、此処に在るために選んできたんだ。どれだけの過ちをおかしても、その選択だけは・・間違いではなかった。たったひとつの、正しい道。

水の流れる音だけが続いた。やがて、小さく草を踏む足音がして、彼の手に白い掌が重ねられた。
「・・・・ありがとう」

 

青い曙光に、並んだ長い影が伸びる。蹄の音を立て、二つの影が丘を駆け降りる。汗ばむ息は、白い蒸気となって彼らの後ろへ流れて行く。朝の光が、常緑の木々に照り映えていた。

 

end

 

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