夏の花火

――最後にひとつだけ教えてあげよう

 

「昔、言われた。まだ幼かったからその時は意味が分からなかった」
「近衛に入る前?」
「お前も知っているはずだ、私達だけしか知らない。父上にも決して言うなと」
「あの時か」

 

その年の夏、オスカルは自邸ではなく宮殿にいた。何かの祝いだったのか、日が暮れると花火が上がり、昼と見まがうばかりの無数の灯りが庭に揺らめき、幾百の人々のさざめきが伝わってくる。
オスカルとアンドレは、着飾った人々が群れ騒ぐのを見ていた。人の数より多いワイン、積み上げられた料理の数々、服の襞を揺らしながら踊る男女。隣にいるお互いの声も聞き取れないほどのざわめき。
喧騒に彼らは酔ったようになり、庭園の隅の東屋で座り込んでいた。数年後にはこの只中で生きなければならないと知っていても、静かに暮らす自邸での雰囲気の違いに戸惑った。

「オスカル、どうして皆あんな風に踊り狂うんだろう。顔を白く塗ってまで」
「判らないけれど、私はあの中に入らないよ。父上に言われたように、私は王をお守りするだけだもの」
「そうとも限らぬぞ」
背後から低い声が響いて、二人は飛び上がった。いつの間にか、東屋の椅子に貴婦人が一人座っていた。
「オスカルと言ったな。おぬしはジャルジェ将軍の末子か」
「・・さようです」
オスカルは姿勢を正して一礼した。
「こちらへ座りなさい、顔をよくお見せ」
煌びやかな花模様が織られ、袖に何重ものレースがついたローブの夫人。声は柔らかいが、低く威容があった。
「いえ、私は此処で結構でございます」
「そうか」
夫人はそのまま椅子の背に凭れるようにして、深く息をついた。
「お疲れなのですか?ご気分が悪いようでしたら、ワインを取ってまいりましょうか」
「よいのだ、幼いそなたには思いもつかぬことだろうが、これが老いるということでな」
顔を上に上げ目元を抑えている夫人は、さほど年嵩には見えなかったが、袖から覗く腕は青白かった。
「失礼ながら、貴方様は?」
「妾の名は知らずともよいであろう、少なくともジャルジェ将軍は喜ぶまい」
「父上が?」
「だから、妾と会ったことは他言してはならぬ。そちらの幼い従僕も」
夫人とオスカルから離れて控えていたアンドレは、びくりと肩を震わせた。声に含まれる威圧に身体が竦む。
「アンドレならば主人の私が保証します、決して他言いたしません」
「さすがにジャルジェ将軍の嗣子、小気味よい娘よ」
彼らにも相手が身分の高い女性であることは判る。しかしまだ宮廷に馴染みのない二人には夫人の正体が判らなかった。将軍の嗣子が女であることも知っているこの夫人は。
「そなたは、父の跡を継いで軍人になるのか」
「無論です、その為に日々学んでいます」
「で、あろうの」
夫人はオスカルの手を取り、幼子に似合わぬ剣の柄で荒れた掌を見つめた。
「しかし、今は父の教えに忠実に従っているそなたも、いずれ選ばなければならない時が来る」
「何をでしょう」
「男として戦うか、女として生きるかだ」
「私は迷いません。男として軍人になります」
「そうとは限らぬ、先ほども言ったであろう」
夫人は小さく笑ったが、そこに侮蔑はなかった。
「そなたが男でも女でもない時期は、もうすぐ終わる。そちらの従僕のほうが背が高くなる」
「アンドレが?」
オスカルは思わずアンドレを振り返った。出会ってから今までずっと、彼のほうが小柄だった。
「そなたもオルレアンの少女の話は知っておるな」
「存じております・・が」
オスカルの声は小さくなった。その物語を知った時は、乙女の最期が余りに理不尽だと感じた。
「男として戦う道を進むなら、これからそなたと、かの乙女を引き合いに出す者もいるであろう。乙女は男として戦ったから断ぜられた。そなたは、火にくべられる覚悟はあるか」
「それは・・・」
「あの!奥様」
夫人の威容も忘れ、アンドレは思わず声を上げていた。
「私の主人は、決してそのようなことになりません」
「ほう・・」
「アンドレ、控えろ」
「よい、おぬしは何故そう言える」
「私がさせません。何があっても」
アンドレは気づかぬうちにオスカルの横に立ち、精一杯胸を張っていた。
「成る程な」
「従僕の非礼は私の咎です、深くお詫びいたします」
「そなたは良い従者を持っている、詫びることはない。オスカル・フランソワ」
「私の名もご存じで」
「貴族の顔と名は殆ど覚えているのだよ。それが妾の生き延びる術であった。もうじき・・・終わるが」
人々の歓声と共に花火が連続して上がり、夫人の遠くを見る横顔に赤い色が反射していた。
「あの・・」
オスカルが夫人の表情に声を詰まらせていると、振り返って微笑んだ。
「幼子を何時までも引き留めておくのではないな。もう自室に帰るがよい」
「しかし奥様は」
「心配せずとも、いずれ迎えが来る。誰にでも来るのだ」
「・・はい、それでは失礼いたします」
オスカルとアンドレは、釈然としないものを感じながら踵を返した。
「ああ、オスカル・フランソワ。最後にひとつだけ」
夫人はオスカルを手招きすると、頬を近づけ耳元で囁いた。
「そなたが乙女のようにならぬよう、ひとつだけ教えてあげよう。男というものを知ることだ。それが女でありながら男でいることの、生きる術だ」
「私には・・・判りません」
「妾からのせめてもの手向けだ、忘れてもよいぞ」
当惑してそれ以上答えないオスカルに、夫人はもう背を向けてしまっていた。

帰る途中、一度だけオスカルは東屋を振りかえった。夫人の姿は木々に隠れて見えなかったが、花火は何時までも上がっていた。

 

「今なら判るが、あの方は前国王の寵姫であった方だな」
「花火の夜から、数週間後か。父上が難しい顔をして“それでもあの方がフランスを支えていたことは間違いない”そう言って礼拝堂に入っていった。軍人の父上からすれば、寵姫が国政に絡んでいたことは、忸怩たるものがあっただろうに」
「あの夜も、病気の快癒を願ってのことだったそうだ。その人が何故、片隅の東屋にひとりでおられたんだろう」
「さあ・・判らない。判らないけれど」
―――迎えは誰にでも来るのだ
――ひとつだけ教えてあげよう
「あの方は平民から寵姫になり、箍の緩み始めた国を支えた。女として全霊で戦っていた。だから私に・・あの言葉を」
「そういえば、お前だけ呼び戻されて。何と言われたんだ?」
「言えない、女だけの秘密だ。でも・・」
忘れてもよい、と言われたから忘れられなかった謎めいた言葉。そしてあの、赤く染まった、横顔。
「お前という男を知ることが出来た。だから・・私は乙女にならない」
「そうだ、お前は火にくべられたりしない。俺が決してさせない」

 

男として生きるならば 男のことを知ることだ。彼らの欲望、脆弱さ、虚勢、悲しみを。そうして生き延びよ。神の啓示によって火に焼かれないように。

 

――女は様々な形で戦う。私の道はあの方とは違っていたけれど、言葉の意味が今なら判る。生きる為には知ることだ、男達の心を。しかし私は、充分に知りえただろうか、生き延びられるだろうか。この赤く爛れた胸を抱えたまま。

オスカルは腕の中の愛しい男を見つめた。柔らかな黒髪が肩にかかる。そっとそれを払って、安らかに閉じられた瞼の上にキスをする。
―――私は生きる。生きてみせる。祖国のため、彼のために。死を迎えるその瞬間まで。

 

夏の朝が明けようとしている。彼らは未だに抱きあったまま、知らない未来の夢をみていた。

 

 

 

END