残酷

絵が好きってどんな気持ちだったっけ?

 

「僕は!なんっも、できん、かった!!」
橋田がそんな大声出すの初めて見た。人通りの少ない通りとは言え、夜中に大声出すこと自体、橋田らしくない。図体はデカいけど、いつもちょっとへらっとして、なんでも受け流す男だった。
「なんも・・できんかったな」
「でもさ、俺たちが出来ることなんて」
「わかっとるよ。お絵かき教室で会うだけの、ただのバイトが。小学生相手とは言え、口出すことやない」
「そりゃ、俺だって割り切れないよ。小枝ちゃん、いい子なのに」
「そうやな、ええ子やもんな。だから、ああなってしもたんや」
可愛くて素直でまじめな女の子。習い事は連日で、負担が多いのは誰の目にも明らかだったけど、本人が辞めたくないと言っていた。頑張ればちゃんと結果が出る、自分が好きなものは結果が返してくれる、そんな気持ちが折られることなんて、小学生の女の子は知らなかっただろう。

絵が好きで辞めたくないと言ってたのに。無邪気で無責任な親に、他の絵と比べて駄目だしされた。それから絵が変わってった。モチーフの描き方が変わり、色が変わり、描いても描いても楽しそうじゃなくなった。
見かねた橋田が、共作を勧めて。二人で向かい合いながら描いている姿は、久しぶりに嬉しそうだった。迎えに来た親に、その絵が二つに破られるまでは。

「・・僕なぁ、初めてホントの絵画を見たのが、小枝ちゃんと同じ頃やってん」
「そうなの?」
「なんや母親が、ゴッホ展の券貰たから、あんたらもおいで言うて。でも誰も行きたがらんかったから、僕だけ行ったんや」
「まあ、普通小学生は興味ないよね」
かろうじて名前を知ってる程度じゃないか?俺だって、小学生の頃ゴッホなんて知らなかったと思う。
「何となく、写真でだけ見たことがあったんちゃうかな。まあ帰りにおやつでも買うてもらうと思って行ったよ」
「だろうね」
小学生男子の行動原理なんてそんなものだ。
「人、多てなぁ。見えへんでつまらんから、無理やり真ん前まで行ったんや。大人に押されるようにして、真ん前で見たら・・」
橋田は立ち止まって、おさげを揺らしながら上を見上げた。雲が切れて、月が出ていた。
「そこで初めて・・ホンマの絵を、見た。驚いたんは、絵の具に筆跡があったことや」
「うん?」
「今考えたら当たり前やけどな、僕は吃驚した。そうか、これは人が描いたんや。どこの誰とか知らんけど、誰かがこれを、ひとつひとつ絵の具つけて、塗って塗って、こういう絵にしたんや、って」
橋田はそのまま、虚空に手を伸ばした。
「どうしてこんな風に塗ったんやろ、なんでこれを描いたんやろ。不思議でな、思いっきり手を伸ばして、触ろうとしたら」
「・・・怒られた?」
「そらもう」
振り返ってちょっと笑う。でも、その笑い方は。
「監視員は飛んでくるし、おかんには拳骨くらうし。おかし買ってもらうどころやなかったわ」
「そりゃ仕方ないよ」
橋田に合わせて笑おうと思ったけど、上手くいかなかった。
「それからやな。ゴッホだけじゃなく、いろんな画家とか調べるようになったんは」
「ああ、橋田の絵画オタクの原点は其処か」
「それから僕はずっと、描く人間に興味があった。どうして、どうやって、何考えて。こんな色々な物を作り出したんやろう。何を見てた?何を感じてた?でも・・どうやっても、判らへん、越えられへんことがあった」
「それ・・・」
俺なんかが聞いてもいいのかな。こいつがどこか壁を作ってる原因を。
評判になる程の美術知識で、頼れば何でも教えてくれる。胡散臭がられたりもするけど、基本人当たりがいい。現に絵画教室でも子ども達にすぐ馴染んだ。でも柔らかい物腰の中に、冷たくて硬い壁がある。
「聞いても・・いいかな」

「うー・・ん」
沈黙があった。図体デカいおさげ男が、満月を背に黙ってると、ちょっと怖いんですよ。でも怯んじゃ駄目だ。
「まあ、ええわ。八虎やしな」
どういう意味?
「僕は、作る側の方には行かれへん」
「え?でも」
現に美大に行ってるじゃないか。そりゃ藝大は落ちたけど、多摩美で頑張ってるんじゃないのか。
「判るやろ、そっちに行くには、飛び込むだけの覚悟がいるねん。怯んでも悔しくても、そっちにおらんと生きてけへんくらいの」
「いや、でも・・・・・ああ・・うん」
判ったのかな?判る気がするだけかな?でも、何となく。

 

描く側、作る人間は、もう気づいたら其処にいる。渋谷が青かった朝を、目に映るものを、描くしかなかったみたいに。其処に入ってしまったら、もう出ること逃げることもできない。挫折もする、止めたくなる、逃げたくなる、落ち込むし怖いし、しょっちゅう凹まされるし。それ俺だな。でも作ることを知らないふりは出来ない。それだけは、出来ない。

 

「僕は描く人間、全部が愛おしい。この世界に在る芸術全部、この目で見て抱きしめたい。そう思ってる時点で、僕は描く側と違うねん。美術に関わってるのは、描く人間たちのすぐ傍にいたいからや。そして・・少しでも、そんな人間に寄り添いたい。そう、願ってたんやけどな」
小枝ちゃんの挫折は、橋田の挫折でもあった。愛しい絵描きを助けることが出来なかった。まだ弱々しいけれど、絵を愛していた絵描きを。
『橋田先生、ありがとうございました』
そう言って、最後に深くお辞儀した小枝ちゃん。
『僕、先生“に”も向いてないわ』
そう呟いた橋田。

絵は残酷だ、そして・・人も残酷だ。

「なあ!橋田さあ!」
「うわ、なんや八虎。大声吃驚するやん、夜やで」
いや、お前こそね。
「向いてないってこと、ないよ」
「あー・・?」
「そりゃ、最初っから佐伯先生みたいにはいかないけど。でも諦めるなよな。お前美術が好きだろ、描いてる人間が好きなんだろ。それなら諦めるな。小枝ちゃんだって、戻ってくるかも・・知れないし。その時、お前がいなかったら・・」
だんだん小声になっていくのが自分でも情けない。判ってる、小枝ちゃんがどうとかっていうんじゃないんだ。俺がただ、橋田が諦めるのが嫌だってだけなんだ。
「・・踏みとどまれよ」
俺って、我儘だ。知ってたけど。

寒い、風が出てきた。月が隠れたのかな、真っ暗だ。橋田は何も言わない、俺はそっちを見ることが出来ずに俯いてる。
「・・・せやなぁ」
橋田がやっと声を出した。俺が顔を上げると、橋田はまた上を、隠れた月を見上げてる。
「うお、寒っ。僕もう帰るわ、お疲れさん。八虎もはよ帰りや、風邪ひくで」
「あ、ああ。うん」
橋田は掌とおさげをひらひらさせながら、夜の道を遠ざかっていった。

俺はと言えば。その後落ち込んだりもしたけど、元気です。じゃない、二年が始まって目まぐるしい。500枚ドローイングとか、頭おかしい。橋田にまた会うことはあるんだろうか、また絵画教室のバイトに来るだろうか。パスポートの準備しとこうか。もしかしたら、あいつと一緒に行くかも・・いや、まあ。どうなるか分かんないけど、まず金無いし。

会ったら、ようって声かけて。八虎はあんま背延びへんねんな、とか言われるんじゃないかな。そうなったら・・いいな。

 

END